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江上氏
●梅鉢/丸に隅立四つ目結
●大蔵氏流
・丸に隅立四つ目結は、少弐氏から賜ったものであろう。


 江上氏は九州の名族大蔵氏の一流で、他の大蔵一族と同様に代々通字として「種」の字を用いている。
 大蔵氏の祖は漢の高祖といい、大化年中(645〜649)に日本に帰化し、漢氏を名乗った一族の後裔と伝えられる。大和朝廷の官物を納めた蔵である大蔵に仕えたことから、大蔵を氏として朝臣の姓を賜ったといわれる。
 大蔵氏が九州と関わりをもったのは、天慶四年(941)に起った藤原純友の乱で、大蔵春実は源経基・小野好古らとともに、乱の鎮定のために出陣した。乱後、軍功により原田の庄を賜り太宰府の府官に任ぜられ、子孫が鎮西各地に広まった。
 春実から八代の孫の種成には五人の男子があり、四男の四郎種光が筑後国三潴郡江上村に住して城を築き江上氏の祖になったのだという。もっとも、諸本伝わった大蔵氏の系図は、それぞれ異同が多く、春実の四男種門を江上氏の祖とするもの、種成の弟光種を祖にするものなどがあり、いずれとも決し難いというのが実状である。『城島町史』によれば、二代長種には二子があって長子を四郎種冬、次子は三郎忠種といったという。
 忠種の孫氏種(一本では種宗)の時、元冦の役に遭遇して出陣、軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜ったことから肥前と関係をもつようになった。

中世、鎮西の争乱

 南北朝時代の江上氏は近種の時代で、近種は元弘三年(1333)、二品親王(護良親王)の命を奉じて宮方として行動したらしい。
 その後の江上氏の動向については必ずしも明確ではないが、筑後の国衆として勢力を維持したことは疑いない。ちなみに天文年間(1532-55)における筑後国には、上蒲池・下蒲池・問註所・星野・黒木・河崎・草野・丹波(高艮山座主)・高橋・江上・西牟田・田尻・五条・溝口・三池の大身十五家があって、これを筑後の十五城と称した。江上・高橋の両氏はのちに肥前・筑前に移ったので、実際は十三城になったという。
 南北朝時代を経て室町時代に至ると、幕府管領畠山氏、斯波氏らの家督争いが起り、幕府の威信は翳りを見せるようになった。さらに、将軍継嗣問題から、応仁元年(1467)に応仁の乱が起ると、世の中は群雄割拠する戦国時代となった。
 室町時代の九州地方は、九州探題に渋川氏が任じられ、それを周防の大内氏が支援するかたちで豊前・筑前の守護職に補任され北九州に勢力を伸ばしていた。これに対して、鎌倉以来の鎮西の名族少弐氏が大友氏と結んで対立するという構図になっていた。
 永享五年(1433)、少弐満貞は大内持世と戦って敗れて自刃した。翌年、満貞の弟横岳頼房は探題渋川満直を攻め、これを肥前神埼で討ち取った。江上氏十二代の肥前守常種も頼房に味方して活躍、勢福寺城を新たな本拠にすると少弐氏を助けつつ、国人領主として勢力を拡大していった。ところが、文明二年(1470)常種は一揆と戦って討死し、子の興種(孫ともいう)は勢福寺城を失った。
 その後、大内義興が豊前・筑前への支配を強め、豊後の大友氏は穀倉筑後を征圧し、少弐氏は肥前を本拠に筑前の回復を企てていた。十四代元種は少弐氏を援けて勢福寺城に入り、天文八年(1539)、東肥前に侵攻してきた大内氏の大将陶興房(道麒)と戦った。この戦いで江上勢は、太鼓を打鳴らし鬨の声をあげて攻めかかり、それに驚いた大内軍は散々な敗北を喫したという。翌年、ふたたび軍を起した道麒は、まず筑後に打入ると久留米安武城の豊饒美作を攻略、敗れた豊饒が肥前東津に奔ると、これを追撃して筑後川を押し渡り肥前になだれこんだ。
 少弐氏は資元・冬尚父子の代で、江上元種は資元・冬尚父子を護って勢福寺城 に立て籠った。これに、少弐氏恩顧の諸将が続々とはせ集り大内軍を迎え撃った。このときもっとも活躍したのが龍造寺家兼で、大内軍は散々な敗北を喫して潰走した。
 度重なる敗戦に業を煮やした大内義隆は、みずから三万の大軍を率いて筑前に出陣してきた。これにはさすがの少弐方も打つ手がなく、龍造寺家兼らの意見もあって資元・冬尚父子は勢福寺城を明け渡した。しかし、義隆は追撃の手を緩めず、多久に逃れた資元は切腹、冬尚は筑後に逃げ落ちていった。こうして、大内氏の勢力が北九州を席巻した。

少弐氏の興亡

家紋  筑後に逃れた冬尚は、その後、蓮池の小田資光を頼って再起をねらった。冬尚は龍造寺家兼の佐嘉水ケ江城を訪れて協力を請い、家兼の尽力で勢福寺城への復帰がなった。そして、家兼は弟の龍造寺家門を執権とし、それに江上元種、馬場頼周を補佐と定め、少弐冬尚は一応の安泰をえた。
 天文十年、冬尚は大友義鎮と筑前で会合し、大内氏への対抗策をこらした。冬尚は家兼の支援によって勢力の回復をえたものの、父資元が滅亡したのは、家兼が大内氏に通じた結果という思いが捨てきれなかった。そこに、龍造寺氏の台頭を危惧する馬場頼周が、謀略をもって龍造寺氏を排斥しようと企てていた。天文十四年、馬場頼周は冬尚を説き、家門ら龍造寺一門の主だった六人を謀殺した。思いがけない非運に見舞われた家兼は、筑後の蒲池氏を頼つて肥前から逃れ去った。
 家兼をはじめとする龍造寺一門は少弐氏の柱石であり、この一挙は、少弐氏自滅の原因となった。翌年、鍋島氏の活躍で肥前に復帰した家兼は、仏門に入っていた孫の法師丸を還俗させて龍造寺家を継がせた。法師丸は胤信(のち隆信)と名乗り、天文十六年、大内義隆と結び少弐氏追討の軍をおこした。冬尚は江上元種をはじめ譜代の武士を集め、龍造寺軍と戦ったが目達原の合戦で敗れ、元種は冬尚を守つて筑後に逃れ江上城に隠居した。元種のあとは、武種が江上氏の家督となって少弐冬尚を支えた。
 天文二十年(1551)、大内義隆が陶隆房の謀叛によって殺害されたことで、北九州の情勢は大きく動いた。俄然大友氏の勢いが強くなり、少弐冬尚も大友氏と結んで龍造寺隆信討伐の軍を起こした。江上武種も神代・小田・本告・犬塚らの諸氏とともに冬尚に加担した。
 これには、さすがの龍造寺隆信も力及ばず、降伏勧告を受け入れて佐嘉城から落ちていった。隆信を肥前国内から追放した冬尚は、龍造寺鑑兼を龍造寺家の当主に据え、土橋栄益を家宰とし、神代勝利・高木鑑房らに佐嘉城を守らせた。江上武種は冬尚の執権となって神埼・三根の二郡を領した。
・丸に隅立四つ目結:江上氏がのちに梅鉢に代えて用いるようになった


龍造寺隆信の台頭

 筑後の蒲池氏のもとで雌伏していた隆信は、永禄元年(1558)、少弐氏討伐の軍をあげると勢福寺城を囲んだ。江上・神代らの少弐勢は隆信の猛攻をよく防いで、城は容易に落ちなかった。やがて年末に至り、隆信と少弐・千葉・江上氏らとの間に和議がなり、龍造寺勢は城の囲みを解くと佐嘉へと帰陣していった。
 しかし、翌永禄二年正月、突如として軍を起こした隆信は神埼口より城原に攻め入り、勢福寺城を包囲すると四方より攻撃を加えた。少弐・江上方は虚を衝かれて防戦も思うにまかせず、ついに江上武種は切腹しようとしたところを鍋島信昌に止められ、隆信に降って筑後へ落ちていった。少弐冬尚も武種に去られては万事窮すで、ついに冬尚は自刃して少弐氏は滅亡した。
 その後、江上武種は龍造寺氏に属したが、大友氏の来攻にあたって隆信が救援の約束を守らなかったことで大友氏に従った。しかし、大友軍が撤退すると、今度は龍造寺から攻められ、重臣執行氏の進言で和議をとりつけた。その結果、武種は隠居し、隆信の次男家種を養子にして江上家の存続をはかった。
 戦国時代後期の九州は、大友宗麟が最大の勢力を有し、南九州の島津氏が北上作戦を展開するようになった。これに肥前東部を征圧した龍造寺隆信の勢力が絡まって、三者鼎立状態となった。そのような天正六年(1578)、大友氏と島津氏が日向で戦い、大友氏は壊滅的敗北を喫して、にわかに勢威を失墜した。龍造寺隆信は大友氏の敗戦を好機として筑後・肥後に侵攻、飛躍的に勢力を拡大させ、ついには三州二島の太守と呼ばれるまでになった。
 天正十一年、隆信の残忍性を危惧した有馬氏が島津氏に通じ、龍造寺方の深江城を攻撃した。翌年、隆信はみずから三万の大軍を率いて、有馬氏討伐の軍を発した。江上家種は弟で後藤氏を継いだ家信とともに出陣、龍造寺軍の左翼を形成した。
 戦いは島原半島の沖田畷で行われ、島津・有馬連合軍の計略によって龍造寺軍はまさかの敗戦、隆信は戦死を遂げてしまった。父隆信戦死を聞いた家種は有馬勢に突入して鬼神の働きを示したが、 龍造寺軍は潰乱し僅か七名の従者とともに死地を脱して撤兵した。このときの戦いで、家種に従った江上衆の将士のほとんどが討死したという。

江上家種の死

 隆信戦死後、柳河から鍋島信昌(信生・直茂)が佐嘉城に移り、執権として体制の立て直しにつとめた。一方、家種は蒲池城に入り、筑後の治安にあたった。その後、天正十五年に豊臣秀吉の九州征伐が行われると、家種は立花宗茂、鍋島信昌ともに、先陣をになって島津軍討伐に活躍した。
 九州を平定した秀吉は九州仕置を行うと、立花宗茂は筑後柳河を賜り、龍造寺政家は佐嘉を安堵された。しかし、その後、秀吉は政家に隠居を命じ、軍役を免除した。そして、朝鮮の役には直茂が出陣が命じられ、龍造寺家臣団は直茂の下に編成され、鍋島氏との主従関係が醸成された。この状態を家種は快く思っていなかったようだが、朝鮮の役に出陣して釜山において死去したと伝えられている。家種の死は病死・狂死・戦死など諸説あり、無念の死であったようだ。・2005年4月13日

参考資料:佐賀の戦国人名志/九州戦国史 ほか】

お奨めサイト… ●城島町歴史探訪



■参考略系図


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