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土肥氏
三つ巴
(桓武平氏)


 土肥氏は、桓武平氏良文流で相模国土肥郷から発祥した。良文は村岡五郎と呼ばれ、三浦・大庭・長尾の諸氏が分かれた。土肥氏の祖となる中村氏もそのひとつで、三浦半島を拠点とした三浦氏と並ぶ有力武士で、国衙の在庁官人であった。中村氏で初めて確実な史料にみえるのは宗氏で、それ以前のことは確かな史料にはない。
 宗平は中村郷を中心として、さらに周辺の荒野へ積極的に開発の手をのばし、自分の子供をそれらの開発地に入れて開発を推進した。本領の中村郷は嫡男が受け継ぎ中村太郎重平と名乗り、それ以外の子が、土肥次郎実平・土屋三郎宗遠・二宮四郎友平・堺五郎頼平らであり、それぞれ分け与えられた開発地に屋敷を構え、そこを名字の地として開発を進めていったのである。
 治承四年(1180)、源頼朝が挙兵したとき、土肥次郎実平が中村一族を率いて石橋山の合戦に参加した。石橋山の合戦は頼朝の敗戦に終わり、安房に逃れた頼朝は千葉氏・上総氏らの参陣をえて軍容を整え、大庭氏らの平氏勢力を駆逐し鎌倉を本拠として武家政権の樹立をめざすことになった。
 以後、土肥実平は富士川の合戦、常陸出兵などに従軍し、頼朝からの厚い信頼をえた。そして、平氏打倒のために義経らが西国に派遣されると、これに従軍した。平氏が壇の浦で滅亡してのち、元暦元年(1184)には備前・備中・備後三ケ国の守護に任ぜられ、播磨・美作の守護に任ぜられた梶原景時とともに、平家敗走後の西国支配の責任者となったのである。

土肥氏の越中入部

 土肥氏の一族で、南北朝期の正平年間(1346〜69)から戦国時代にかけて越中国新川郡西部に勢力を振るった土肥氏が知られる。
 越中土肥氏の事蹟に関しては、いまも日本アルプスを背固めとした幾多の城塞が上市川平野とその山岳部に残されている。その他、土肥氏の後裔を称する家や諸社寺に系図・家紋、文書などが伝えられている。しかし、越中土肥氏がどのような経緯で相模土肥郷から越中に入部し勢力を築いたかという歴史に関しては、不詳なところが多いといわざるをえない。
 伝えられた系図などによれば、実平五代の孫実綱の弟頼平が建長の頃(1249〜55)地頭職として越中へ入り、同荘で次第に在地領主化しやがて井見荘(弓庄)の代官にもなり、土肥氏は堀江系と弓庄系の二つの系統に分かれたのだという。そして、前者は堀江城を本城とし上梅沢館、有金館、郷柿沢館、稲村城、千石山城を、後者は弓庄城(舘城)を本城とし柿沢城、茗荷谷城などの城郭群を形成した。その所領は、最盛期に七万石とも十万石ともいわれ、天正十二年(1584)、佐々成政に滅ぼされるまで約三百年にわたって繁栄をつづけたのである。
 越中にはじめて入ったといわれる頼平の名は『越中土肥氏系図』にのみ見られるもので、その実在に関しては伝承のなかにあるとしかいえない。他方、祇園社の史料から、正平六年(1351)土肥心覚なる人物が、越中から祇園の蔵米を京都に輸送したことが知られ、同能都などの名が散見し堀江荘内に大きく力を伸ばしていったことが知られる。さらに、鎌倉時代に同荘で非法を働いた心仏なる人物も土肥一族だったと考えられている。

土肥氏の勢力拡張

 土肥氏本宗は先述のように、和田合戦で潰滅的な打撃を受け、その後衰退を余儀なくされた。土肥氏を中興したのは、実平五代の孫にあたる実綱であった。実綱は将軍頼嗣、執権北条時頼・時宗らに仕えて信任を得たが、角力の名人だったようで『吾妻鏡』にも実綱の角力における記事が散見している。このように実綱は土肥氏の勢力挽回を果たし、実平の百回忌を盛大に執り行ってもいる。『土肥氏系図』によれば、越中土肥氏の祖とされる頼平は実綱の弟となっている。
 ところで鎌倉初期、北陸の地には院に遠慮してさしたる地頭が配置されなかった。その後、幕府の政治体制が確立されるにつれ、北陸における地頭の数も増加した。文治三年(1187)には、吉岡庄に成佐が、同六年には弘田御厨および加納の給主に惟幸なるものがみえる。さらに建長以後(1249〜)になると、同三年越中前司頼業、正嘉元年(1257)越中六郎右衛門尉時業、同二年に越中四郎右衛門尉、弘長三年(1263)には越中次郎左衛門尉・同五郎右衛門尉・同六郎らの名がみえる。
 これらは越中を称する人々は宇都宮氏一族の横田氏の代々に比定されるようだ。そして、かれらが越中と関係をもったころは土肥頼平が在世(系図によれば)した時代であり、実綱によって土肥氏が再興された時期でもあった。実綱・頼平の越中との結びつきを確たる史料から探ることはできないが、土肥氏の勢力挽回を背景として所伝にあるように越中に地頭職を賜り越中へ入ったのかも知れない。あるいは、承久の乱後の新補地頭として入部したとも考えられる。
 いずれにしろ、いつのころか越中に入部したと思われる土肥氏は、在地領主として次第に勢力を拡大し、室町期には国人の一人に成長していたことは諸記録の語るところである。
 越中の守護は畠山氏宗家が代々世襲し、領国の政治は守護代として遊佐・神保氏らが代行していた。室町時代、守護の畠山氏に大規模な家督争いが起きた。このとき、神保氏・遊佐氏・椎名氏らとともに土肥氏もこれに関わり畿内を転戦した。この争乱は、やがて「応仁の乱」へと連鎖し、日本国中を戦国時代へと叩き込むことになる。このころ、土肥将真なる人物が畠山尚順に従い将軍に謁見し、土肥六郎左衛門は明応二年(1493)の戦いに敗れ畠山政長とともに切腹するなど土肥一族の活動が知られる。

時代に翻弄される

 戦国時代にいたり、越後の長尾為景が越中に侵攻したとき、土肥氏らもこの戦いに巻き込まれ、やがて越後長尾氏に従属する椎名長常が越中新川郡を支配するようになった。しかし、土肥氏のなかには椎名氏の頭ごしに直接越後に訴状を送るものもいた。天正五年(1577)の上杉謙信の将士名簿のなかに土肥但馬守親真(将真の後裔か)の名がみられる。
 弓庄城主の土肥美作守政繁は、堀江のほか柿沢・稲村・弓庄などに城を構えていた。政繁は、はじめ上杉謙信に属していたが、天正六年(1578)に謙信が死ぬと織田信長に属した。しかし、天正十年(1582)信長が本能寺に倒れると、謙信のあとを継いだ上杉景勝と結んで織田氏に対抗した。これに対して織田方の佐々成政は、天正十年(1582)弓庄城を攻めたが、要害堅固な平城のため成政は長期戦を覚悟し日中砦・郷田砦を築いて土肥氏に対峙したが、土肥勢の守りは固くいったん兵を引き揚げた。翌年二月土肥勢は反撃に転じ、成政方の小出城・新庄城を落としたが維持することはできず弓庄城に引き揚げ、以後、長い籠城が続いた。
 そんな状況下にあって、土肥勢はしばしば城内から出撃し佐々方の砦まで攻め込んでいる。これに対し佐々方は、返り鹿垣を設け土肥勢を一歩も外に出られぬようにし、上杉方と土肥方の連絡も断った。その間、上杉方の魚津城が落ち援軍も得られなかったため、天正十一年四月、佐々方と和議を結び土肥政繁は越後へ退散していった。
 翌天正十二年に、土肥氏にとって旧領回復を目指す機会が訪れた。すなわち、富山城主佐々成政攻撃の陣を上杉景勝が催したのである。土肥氏は、上杉方の先鋒として成政方の境城を落とす原動力になった。しかし、上杉景勝が佐々成政と羽柴秀吉に降伏したため、せっかくたてた手柄も無効となり旧領回復はならなかった。土肥政繁はそのまま越後にとどまり、旧領に帰ることなく異郷の土となった。
 政繁の越後での生活は悲惨であったようだ。政繁の没後、娘婿の半左衛門は出羽の最上義光などのもとにあったが、元和二年(1616)に没し政繁の家系は断絶したという。他方で、さきに、飛騨に逃れた政峰の子伊勢守政頼か孫の政勝が弓庄城主土肥政繁のもとに身を寄せ、後年天正十一年(1583)弓庄城落城の際堀江に逃げ帰り政頼の子政勝は後図を図ろうとしたが機を得ることができなかった。そして、慶長九年(1604)、先祖の菩提をともらうため本願寺教如上人に帰依し了遊の法名と立剋寺の寺号を授り、笹川山立剋寺を建立した。以来、子孫伝承し現在に至っている。

『土肥家記』のこと

 戦国末期からの土肥氏の歴史を記した『土肥家記』がある。この書物は、弓庄城主土肥氏の重臣有沢氏の流れを汲む有沢長貞で、延宝八年(1680)に著したものである。有沢氏は越中を追われた土肥氏が越後や出羽で浪々の日を送る間もこれに従い、土肥家断絶まで見届け土肥氏の所持していた古文書も継承していた。
 家記には織田方と上杉方のせめぎあいの中にあって、複雑な向背を余儀なくされた土肥氏の苦悩がよく描かれている。また、越中を放逐されてからの土肥氏の動向はこれによるしかない。収録されているなかには、天正九年(1581)越中に分封された佐々成政が最初に発給した文書など貴重なものも多く、「弓之城古城之図」「越中新川郡方角之図」と題する二枚の絵図も含まれている。


■参考略系図
「神奈川の歴史」に掲載されていたものと、滑川市史などに記された土肥氏の系譜を併せて作成した。下記にみえる政峯と文中の政峯が同一人物か否かは疑わしい。また、土肥氏の家紋は「見聞諸家紋」に土肥清平のものとして「三つ巴」が収録されているが、下記の系図にはみえない。おそらく清平は、京都で室町幕府に仕えた土肥氏の一族であったろう。  
  


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