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馬場氏
●隅立四つ目結
●少弐氏一族


 馬場氏は少弐氏の一族で、肥前国三根郡中野城に拠った。系図などによれば、少弐満貞の子肥前守頼経に始まるという。馬場氏の宗家であり主家である少弐氏は、鎌倉以来の鎮西の大族であったが、戦国時代になるとわずかに肥前に命脈を保つばかりの存在になっていた。

落ち目の少弐氏を支える

 少弐氏からは多くの庶家が分かれ出たが、そのなかでも馬場氏、筑紫氏、横岳氏らは少弐氏をしのぐ力を持つようになった。戦国時代、少弐氏が大内氏の攻勢にさらされるようになると、筑紫満門は大内氏に通じるようになった。馬場頼周にとって満門は岳父であり、その変節に頼周は怒った。ついには、孫が病気であると偽り、満門を綾部城に誘って謀殺した。
 永正十四年(1517)、少弐資元は管領細川氏に通じて大宰少弐に任じられ、勢福寺城に入った。これを頼周は江上元種とともに支えた。享禄三年(1530)、大内氏は資元を討つため、杉興運を大将とする軍勢を肥前に送った。これに筑紫尚門、横岳資貞、朝日頼貫らの少弐一族が先陣として加わった。迎え撃つ少弐勢は、頼周、江上元種をはじめ龍造寺家兼、小田政光らであった。戦いは田手畷で行われ、一進一退の激戦となった。
 そこへ、鍋島清久の率いる異形の軍団があらわれ、これを芸能集団とみた大内勢が手を休めた瞬間、突如大内軍に突攻したため、大内軍はさんざんに撹乱されて少弐方の大勝利となった。
 天文元年(1532)、大内義隆は陶興房を大将としてふたたび少弐討伐軍を肥前に侵攻させたが、これも龍造寺家兼の活躍で、少弐方の勝利に終わった。たびかさなる活躍で、龍造寺家兼の少弐家中における存在は不動のものとなった。一方、度重なる敗戦に業を煮やした義隆は、天文六年、みずから兵を率いて肥前に侵攻した。これにはさすがの少弐資元もたまらず、龍造寺家兼らの意見もあって、勢福寺城を開いて大内氏に降った。ところが、大内勢は少弐氏に対する手をゆるめず、資元は多久城で殺害され、冬尚は小田政光を頼って落去した。
 その後、再起を図った冬尚は龍造寺家兼に支援をたのみ、冬尚に不憫を感じた家兼は協力を承諾した。そして、冬尚を勢福寺城に復活させると、嫡男の家門を執政とし、馬場頼周と江上元種を補佐とした。

龍造寺一門を討つ

 龍造寺家兼と一族は少弐氏を推戴しながらも、大内氏、大友氏らとも通じて、着々と勢力を拡大していった。この龍造寺一門の隆盛を危惧し、あるいは妬んだ馬場頼周は、龍造寺一門の排斥を企むようになった。そして、少弐資元が討たれたのは家兼が大内氏に通じたからであり、こうして少弐氏の勢力が衰退傾向なのも龍造寺一門の横暴によるものである、とことあるごとに冬尚に話した。さらに、小田政光、神代勝利、千葉頼胤らを語らって、龍造寺討伐の謀略を練った。
 一計を案じた頼周は、有馬氏、松浦氏、多久氏らに謀叛を起こさせ、龍造寺一門に討伐を命じた。龍造寺氏は多面作戦を展開することになり、ついに各所において敗戦を被り、佐嘉に引き上げざるをえなくなった。勝ちに乗じた有馬氏らは佐嘉に攻め寄せた。ことは頼周の筋書通りに運び、あとは仕上げをするばかりとなった。
 頼周はいまや袋の鼠となった水ヶ江城の家兼を訪ね、「冬尚が龍造寺氏が大内に通じているとみて立腹している、ここで誠意をあらわす意味で城を開き、のちに冬尚に赦免を乞われてはどうか」といい「及ばずながら縁戚につながる身として、赦免に尽力いたします」と説いた。頼周の嫡男政員の室は孫娘であり、頼周の言葉を信じた家兼は水ヶ江城を出ると筑後に退去した。
 そして、龍造寺一門の者たちも城を出ると、各地に散っていった。これを馬場頼周・政員父子、神代勝利らは要所に待ち伏せてことごとく討ち取った。子や孫が討たれたことを筑後で知った家兼は、頼周に騙された身の不覚を思い、頼周への復讐の念を燃やした。
 翌年、鍋島氏らの尽力によって水ヶ江城に復帰した家兼は、馬場父子の動向を注視した。そのころ、馬場氏は祇園岳に城を普請中で、いまだ完成間近の状態にあった。千葉胤勝の応援を得た家兼らは、ただちに祇園岳城を攻撃するとこれを焼き払った。不意を撃たれた馬場父子は、綾部をさして落ちたが、途中で龍造寺勢に捕捉され、政員は討死し、頼周は捕えられて殺害された。

頼周への評価

 こうして、馬場氏は滅亡した。馬場氏は先に筑紫氏を謀略で討ち、ついで龍造寺一門を同じく謀略で追い詰めた。とはいえ、筑紫氏ら少弐一族が大内氏に通じて少弐氏と対立していくなかで、やり方と結果はともかくとして、馬場氏は頽勢の少弐氏をよく支えたといえるのではないか。
 『治乱記』には「博学にして才知あり、忠心深くまた下賤を憐れみし者なり。龍造寺の一家を討ち取りしことは、少弐に対して謂れある事なり」と馬場頼周を評している。しかし、いかに少弐氏のためであったとはいえ、馬場氏の行った二つの謀略が、少弐氏の滅亡を決定づけたことは間違いない。・2005年4月28日

参考資料:佐賀の戦国人名志/九州戦国史 ほか】


■参考略系図
 


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