尼子氏
平四つ目結
(宇多源氏佐々木京極氏流) |
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尼子氏は佐々木京極氏の分れで、家紋は佐々木一族の代表紋である「四つ目結」紋であった。
尼子氏は目結のほかに、佐々木氏の支流である出雲の佐々木義清の一門が用いた花輪違紋も用いた。
出雲佐々木氏は塩冶氏を嫡系として、富士名・隠岐・古志・佐世などの諸氏が知られる。
尼子氏も出雲に移住してのち、花輪違紋を用いるようになったものであろう。
目結は「メユイ」と読み、古代の染め方の一種である纐纈染めのことである。江戸時代には鹿子染とか鹿子斑ともいわれた。いわゆる、布を糸で括って染料に浸すと括った部分だけが目のように白く染め残る。つまり、目結とは白く斑に染め残った模様のことである。
これを家紋に用いたのは、宇多天皇の後裔を称し、近江源氏と呼ばれる佐々木氏である。佐々木氏は近江国蒲生郡佐々木庄を名字の地とし、源頼朝の挙兵に際して最初から加わり、大活躍をしたことから世に顕われた。また、佐々木氏は佐々貴神社を氏神として崇敬し、目結の結を一族団結のシンボルとして家紋に用い繁栄してきた。
源平合戦における宇治川の戦で、梶原景季と先陣争いを演じた佐々木高綱、室町幕府草創期に「バサラ大名」として名を馳せた佐々木道誉などの名は世に知られているところだ。京極氏と近江国を南北に分け、戦国時代に近江で気を吐いた六角氏なども佐々木氏の一族である。
一方、輪違い紋は、大和の長谷寺の寺紋として知られている。
同寺の由来によれば、「天地は金剛界、胎蔵界の二界に分かれていて、生物は二界を右往左往して生きているという。
金剛界とは智の世界で、胎蔵界とは理の世界とされ、衆生はそのいずれにも付かず離れず、泣いたり笑ったり怒ったり
恨んだりしている。これを大乗遊戯相という。だが、仏はこの衆生をすべて救う。それが仏の慈悲だと。二つの輪が互いに
組み合っているのは、不悟の衆生としっかり結んで、天地の調和のなかに組み込むことである」と。
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右図:輪違い文様
このような、輪違いの由来から家紋として用いられるようになったものと考えられる。また、輪違いは、互いに連鎖して、延び発展していく意味もあり、縁起のいい文様とみられた。
輪違い紋は、ふつう二個のリングが交差している形が一般的だが、四個が交差しているものもある。この場合は、
リングの四分の一しか見えなくなり、四円のそれぞれ一部が意匠をかたちづくることになる。その中に花角などを
組み込んだものを「花輪違紋」と呼ぶのである。この文様は、平安時代から鎌倉時代にかけてさかんに用いられ、
当時、流行の文様であった。そして、優美な意匠であることから家紋に採用されたものであろう。
中世の武家家紋を収録した『見聞諸家紋』に尼子氏の家紋は収録されていないが、主家にあたる佐々木大膳大夫
入道生観(京極持清)の目結紋、佐々木一族の塩冶氏の輪違い紋が収められている。そして、
塩冶氏の紋に注して「雲州佐々木、凡此輪違也」と記されている。
京極持清の近い一族として出雲守護代に任じられて
出雲経営に大活躍、のちの尼子氏発展の基礎を築いたのが清定であった。出雲佐々木一族である塩冶氏も尼子氏と同様に
京極氏に仕え、のちに京極氏からの自立を目指す経久の前に立ちふさがったのは塩冶氏であった。京極氏に追放された
経久は、新たに守護代に任じられた塩冶氏を倒して冨田城を本拠とし、ついには京極氏の出雲支配を
排除して戦国大名へと駆け登ったのである。
尼子氏の城下町である広瀬の町を歩くと、町内の所々に立てられた幟をはじめ、
道の駅・歴史資料館などで「平四つ目結」の紋が目に飛び込んでくる。
尼子氏の菩提寺で清定・経久父子の墓のある洞光寺は庫裏や屋根などに「平四つ目結」が据えられ、
清定・経久父子の墓の香華台にも「四つ目結」の紋が彫られている。月山冨田城に登ると、
太鼓の段に立てられた富田城址の石碑にも「平四つ目結」紋が刻まれている。
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・尼子氏の菩提寺-洞光寺の庫裏に彫られた目結紋 /洞光寺墓地の尼子清定・経久(左)父子の墓 /月山冨田城-城址碑の目結紋
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実際に広瀬の町を歩いた限り、「花輪違」紋に出会うことはなかった。
佐々木氏の場合、嫡流(六角・佐々木)が「目結」紋、盛綱流の越後佐々木氏系が「三つ星」、
義清流の出雲佐々木氏系が「花輪違」紋を用いていた。
尼子氏は佐々木氏の嫡流京極氏の分かれであり、嫡系に近い家として四つ目結を用いていたはずである。
出雲の守護代として任地に下向したのち、鎌倉時代より出雲に根付いている佐々木一族と
協調する必要から、同じ佐々木一門である印として輪違紋も併用するようになったのであろう。
その後、中国地方を支配下におく戦国大名となった経久は、佐々木氏嫡系の紋である四つ目結を
尼子氏の家紋とし自らの家系を誇示したものと思われる。
余談ながら、佐々木氏の嫡流は近江守護職を世襲した六角氏で家紋は「隅立て四つ目結」、
京極氏は嫡系とはいえ庶流で「平四つ目結」と微妙な嫡庶の違いが家紋にあった。とはいえ、
南北朝時代の京極高氏(道誉)、応仁の乱における持清らは六角氏を凌ぐ勢いをみせ、
六角氏に代わって近江守護職に任じられたが庶流である立場は変わらなかった。
戦国末期、六角氏は織田信長の上洛に抵抗して没落したが、浅井氏や尼子氏の下剋上で
領地を失って没落状態にあった京極氏はしぶとく生き抜き近世大名として続いた。
文字通り歴史は栄枯盛衰の理をあらわす、敗者の歴史は闇に埋もれていくばかりである。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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