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戦国山城を歩く
丹波有数の規模を誇る─神尾山城
神尾山城がいつごろ築かれたのかは不明だが、大永六年(1526)頃、八上城主波多野稙通の弟柳本賢治が拠っていた。当時、幕府管領細川氏が内訌に揺れ、丹波の武士も否応なく抗争に巻き込まれていた。波多野氏兄弟は一方の細川高国に属していたが、兄弟の一人香西元盛が高国に殺害されたことで、敵対していた細川晴元に転じた。そのとき、柳本賢治は高国軍の追討軍を神尾山城において撃退、さらに桂川の戦いで高国軍を討ち破る勝利をえた。その後、賢治は高国方の謀略によって暗殺されてしまった。以後、八木城主内藤氏の支配化にあったようで、天文二十二年(1553)、三好方の内藤国貞が波多野秀忠に敗れて戦死したのは神尾山城においてであった。かくして、神尾山城は波多野氏の丹波史配における東方の拠点として機能したようだ。織田信長の部将明智光秀による丹波攻めが進められると、神尾山城は明智方に攻略され、八上城攻めの中継基地となり本目の城と呼ばれたようだ。
城址は神尾山金輪寺の後方の山一帯に展開しており、曲輪、石塁、土塁、空堀なども確認でき、丹波でも有数の規模を持った城であったことが実感できる。しかし、思った以上に雑木林化が進んでいて見晴らしも悪く、内藤氏の拠った八木城址などと比べると大味な感じは否めないものであった。
・国道362号線から神尾山を見る
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城址南方の金輪寺・金輪寺から城址へ・最初の曲輪・古い墓所から曲輪を見上げる
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意外に広い曲輪と高い切岸・大堀切・連続する曲輪・虎口の石垣
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帯曲輪に残る石垣・水曲輪から主郭方面を見上げる・奇怪な様相の天狗岩・天狗岩沿いの帯曲輪
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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