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戦国山城を歩く
織田軍の但馬侵攻に抵抗した垣屋氏の城砦─釣鐘尾城
JR山陰本線香住駅の南方、香住湾に注ぐ矢田川を大きく屈曲させる加鹿野集落西方の山上に遺構が残っている。
城址は村岡方面に通じる街道を扼す位置を占め、現状は藪化が進んでいるものの往時は山上の曲輪より香住の海までもが
眺望できる要地であった。
伝説によれば、南北朝時代の城主野石源太は、北方の志馬比城主篠部有信と領地争いを起こした。源太は塔の尾城主の
長太郎左衛門と結んで、篠部氏を倒す謀略を企てて機会を待った。そして、篠部有信が先祖の法要で菩提寺に参った
ところを襲撃、篠部氏を滅ぼすとその領地を長氏と山分けしたという。
野石氏と篠部氏の争いの真偽のほどは分からないが、南北朝時代のころに原型となる城址が築かれたようだ。城址は山稜鞍部の堀切によって北城と南城に区画され、北城は最高所を主郭として北と西の尾根筋に階段状に小曲輪が築かれている。おそらく尾根筋の小曲輪群が初期のもので、のちに大幅な改修の手が加えられ現在残る縄張りとなったものと考えられる。そして、戦国末期に城域を拡張して南城が築かれ、土塁・竪堀・畝堀・横堀などの防御設備が施されたのであろう。
・北方を流れる矢田川の堤防より城址を遠望する
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北城東尾根の竪堀を登る ・ 東尾根の小曲輪 ・ 竪堀と曲輪 ・ 切岸が見事な東尾根曲輪 ・ 帯曲輪を見下ろす
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尾根筋に曲輪が連なる ・ 曲輪と切岸 ・ 登り土塁と主郭 ・ 主郭虎口 ・ 主郭の土塁
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地元の方に城址への登り口を聞いたところ、いまでは登る人もなく荒れ放題とのことだった。国道178号線側より
取り付き場所を探ると、竹薮の中に竪堀状の地形を発見、夏草を掻き分けて尾根筋を直登した。
ひたすら登り続けると小曲輪があらわれ、あとは雛壇状に続く小曲輪を登りつめると北城の主郭へ辿り着くことができた。主郭は夏草に覆われているが虎口を左右から挟む形で土塁が築かれ、周囲は5から6メートルを測る切岸が取り巻いている。
北側には帯曲輪が築かれ、U字堀切、竪堀、段構えなどが設けられ、主郭の高い切岸と相俟ってなかなかの要害である。
北城と南城を区画する堀切は幅10メートル、北城側の高さは10メートル近くもあり見上げるような高さである。
堀切を登ると南城の主郭南の腰曲輪で、
西方の登り土塁を上がると南城の主郭である。主郭は東西80メートル、南北45メートルを測る広大なもので
北側に土塁が築かれている。しかし、一面、熊笹に覆われて探索は断念せざるを得なかった。
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主郭北帯曲輪の竪堀 ・ 主郭の切岸 ・ 主郭北西帯曲輪の土塁と主郭切岸 ・ 主郭西のU字形竪堀 ・ 竪堀を見上げる
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大堀切を見下ろす ・ 大堀切 ・ 南城北端の腰曲輪と主郭切岸 ・ 主郭への登り土塁 ・ 一面の藪に覆われた南城主郭
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戦国時代における釣鐘尾城の城主は不明だが、いまに残る城址は毛利氏と結んで織田氏に抵抗した垣屋豊続が
改修の手を加えたものといわれている。実際に城址に登ってみると北城側の防御が念入りに施されていることが
実感される。釣鐘尾城は北方の志馬比城と連携しながら、
東方から押し寄せてくる織田軍に対した垣屋氏の防衛線を担う重要な城であった。
城址は北城・南城ともに保存状態はよく、曲輪の切岸、土塁、竪堀、堀切などの遺構群も見事なものである。
かつては登り道があったというが、今回は道なき尾根を直登することになった。香住の中世史に足跡を刻む山城だけに
せめて一筋の登山道が整備されればと願わずにいられない。また、真夏の登城ということもあって危うく熱中症に
やられて討死するところであった。今年の暑さは異常ではあるが、夏場の山城探索はダニや蛭からの攻撃対策も含めて
慎重な準備が不可欠であることを痛感した。
・縄張図
(『歴史と神戸』に発表された西尾孝昌氏の論文より)
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