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戦国山城を歩く
但馬の中世史に大きな足跡を刻む─三開山城
三開山はもともと山岳寺院があったところに、
南北朝時代のはじめ但馬南朝勢が山城を築いたもので、
但馬伊達氏文書などから激戦が行われたことが知られる。
三開山城のある一帯は古代より拓けたところで、東南すぐのところに
豊岡埋蔵文化財センターがある。
登城にあたってセンターに立ち寄り学芸員の方に三開山城の情報と
但馬方面のクマ出没情報を聞いたところ、
一週間ほど前に三開山城近くでクマが捕獲されたという。
センターを辞して外に出ると雨、クマの件もあって登城をためらわれたが
ともあれ三開山城の登り口へと車を走らせる。
登り口は笹が生い茂り、いかにもクマが出そうな気配である。
が、尾根筋に向けて道らしきものはある…、
笹をかき分け尾根筋へ登っていくと、整備された山道と合流、
みれば小学校方面から上ってくるハイキングコースであった。
・北方より三開山城を遠望する
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東尾根筋の曲輪/堀切 ・ 整備された登山道 ・ 全勝寺址と三開山分岐点の石仏 ・ 城址へ ・ 城址東端堀切
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主郭東曲輪から堀切/尾根曲輪を見る ・ 東曲輪と主郭切岸 ・ 竪堀 ・ 主郭から東曲輪を見る ・ 石仏が祀られた主郭
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山道を登っていくと堀切、曲輪を思わせる地形が続き、
中腹の寺院跡から山上の城址まで石仏が祀られている。
なんというか、三開山は山城址と寺院址が混在した
不思議な空気が漂っているところだ。
東尾根に切られた二重の堀切を越え、
東腰曲輪に着いたあたりからふたたび雨が降り出し、
山頂の主郭に立ったときには結構な降りとなった。
城址遺構は主郭を中心として、西・東・南尾根に曲輪・堀切、
竪堀がよく残り、北方中腹にある千畳敷とよばれる寺院址には石垣も残っている。
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主郭から西曲輪を見る ・ 豊岡方面を眺望 ・ 西曲輪と切岸 ・ 西尾根の曲輪群 ・ 南尾根曲輪群へ
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焼米が出土するという南曲輪 ・ 曲輪が段状に連なる ・ 南曲輪群の虎口 ・ 南尾根に切られたU字堀切 ・ 新田氏ゆかりの瑞峰禅寺
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……………
城址一帯はよく手入れされ、雨模様ながらも主郭からの眺望は抜群、
晴れた日には日本海まで見えるのではないかと思われる素晴らしいものであった。
いま残る遺構は戦国時代に改修されたもので、尾根筋に連なる曲輪群の削平は十分、
曲輪を隔てる切岸も高く、各曲輪を結ぶ城道も明快、堀切・畝堀などなど
城址の残存状態は申し分ない。
なによりも、但馬に侵攻した羽柴勢と但馬勢とが一所懸命の戦いを
展開した歴史を実感できるところであった。
下山したあと、コウノトリの郷に足を伸ばし、
三開山城北東山麓に鎮座する中嶋神社に参拝した。
同社は橘の実を日本に持ち帰ったという田道間守命を祀る神社で、
お菓子の神様として日本全国のお菓子屋さんの信仰を集めている古社である。
三開山は但馬富士とも称され、一帯は古代から拓けたところで、
古墳などの古代遺跡も多い。三開山城攻めは心配したクマとの遭遇もなく、
山岳寺院跡、古代開発者を祀る古社、さらに新田氏ゆかりの古刹などなど
見所の多いところでもある。
・城址案内板の縄張図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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