戦国山城を歩く
山名氏が築いた但馬国と播磨国の境目の城─生野城


生野城は播磨と但馬の国境を扼する城で、応永三十四年(1427)、ときの但馬守護山名時熈築いたことに 始まる。当時、将軍足利義持は播磨守護赤松満祐を討とうとし、将軍の命を受けた時熈は生野に出陣、 播磨をにらむ山上に生野城を構えたのである。
義持の満祐討伐は沙汰止みとなったが、嘉吉元年(1441)、満祐が将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱 が勃発、但馬守護山名持豊は生野を越えて播磨に進撃、乱の平定に活躍した。戦後、持豊は 赤松氏に代わって播磨守護職に任じられ、以後、山名氏と赤松氏の対立抗争は宿命となったのである。
赤松氏を再興した政則は、応仁の乱における活躍で播磨守護職に返り咲いた。これに対して山名氏は 播磨奪還を目指して赤松氏と抗争を繰り返した。そうして、文明十五年(1483)、赤松政則は 山名勢を迎撃するため真弓峠に出陣したがあえなく敗北、山名氏は播磨に侵攻した。 このとき、山名氏の重要拠点となったのは、生野城であったろうと考えられる。 敗れた政則は国人の支持を失って没落、播磨は「播磨錯乱」とよばれる乱世を迎えるのであった。
・南西方面より城址のある古城山を遠望する(20080815)



整備された登山道 ・ 西南尾根先出曲輪(びわの丸)より主曲輪を見る ・ 山腹の小曲輪 ・ 主曲輪虎口 ・ 西曲輪を見る



V曲輪からU曲輪を見る ・ U曲輪切岸に残る石垣 ・ U曲輪から主郭へ ・ 城下を俯瞰 ・ 主郭から西方を見る


但馬生野といえば銀山で有名だが、生野で銀が掘り出されたのは天文十一年(1542)のこと であった。 ときの但馬守護山名祐豊は、銀山を守るため、生野城を大幅に改修、山麓には居館を構えたという。 いまに残る遺構はこのときのもので、標高601mの山頂に置かれた主郭を中心に西方尾根に出曲輪を築き、 主郭の北方と東南尾根に腰曲輪を段状に設けた梯郭式の山城である。
また、『銀山旧記』という古文書によれば、祐豊は山麓に平城を築いていたという。城の構えは、掻上げ堀に 石垣を築き、外堀と内掘をめぐらし、三層の天守閣を造り、隅々に矢倉を設けていたとある。 おそらく城塞というより、銀山を経営する役所として機能していたようだ。いずれにしろ、 生野城は山麓の居館(役所)と山上の詰めの城がセットになっていたことが知られる。

*生野銀山の開鉱を大同二年(807)とする説もあるが、 それを裏付ける史料はない。



主郭北のW曲輪を見る ・ W曲輪先端の櫓台と土塁跡 ・ W曲輪から見た主郭の切岸 ・ 東尾根の堀切 ・ 東尾根曲輪の土塁跡


主郭北X曲輪の横堀 ・ X曲輪の大土塁 ・ X曲輪の竪土塁 ・ X曲輪北端の腰曲輪 ・ 生野銀山へ(20080815)


……………
戦国時代後期、山名氏は家臣団の下剋上により衰退の色を深め、生野城は竹田城主太田垣氏が 支配するようになった。その後、羽柴秀吉の但馬侵攻によって太田垣氏は生野を撤退、生野銀山は 織田信長の経営するとことなり、生野城はその支配拠点となった。信長が本能寺の変で斃れたのちは 豊臣秀吉の支配下となり、伊藤石見守が代官として生野銀山の経営にあたった。
関が原の合戦で徳川家康が天下人になると生野銀山は徳川家のものとなり、間宮新左衛門を代官に任じて 支配させた。間宮代官は生野城を役所として銀山の経営にあたり、以後、 江戸時代を通じて山麓の生野城が生野銀山の中心となったのであった。その間、天守櫓・矢倉などの要害部分は 取り壊され、城としての威容は失われた。
明治維新ののち、生野県の役所として使用されたが、廃県をきっかけに建物は取り壊されてしまい、 石垣と外堀が残るばかりとなった。さらに、それらの遺構も大正時代の宅地造成によってに取り崩され、 埋め立てられてまったく姿を消してしまった。いまはわずかに山上の山城が残るばかりで、 かつて平城があった事実さえ忘れられようとしている。郷土の貴重な史跡・文化財として誇れたものを 惜しげもなく消し去ったことは、現代では考えられない暴挙であり返す返すも惜しまれてならない
・城址案内板の縄張図




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