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戦国山城を歩く
八田大槻氏の城砦─高城山城訪問記
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高城山城は、かつての丹波国何鹿郡の八田盆地に聳える高城山に築かれた山城で、標高298メートルを測る山上に築かれた主郭を中心として東西、南に伸びる尾根筋、山麓に城砦が散在している。東方山麓を綾部から舞鶴に通じる街道が走り、足利尊氏ゆかりの安国寺、上杉氏発祥の地上杉なども散在する要地を押さえている。いまも、西方山麓を舞鶴若狭自動車道、南麓山腹を京都縦貫道が通じる交通の要衝であることに変わりはないところだ。一説によれば、高城大槻氏は安国寺の代官に任じられていたともいう。
城址の立地を考えれば、「なるほど」とうなづけるものがある。
山上の主郭に立てられた城址説明によれば、大槻備中守の居城で、南北朝時代の貞和(1345〜1349)以降に大槻左馬頭清宗が高城山上に城砦を構えたとある。大槻氏は室町時代を通じて何鹿郡の中北部に勢力をふるい、高城大槻氏をはじめ、栗・高津などに一族が割拠した。戦国時代の永正年間になると、さいさい上洛して将軍義澄に謁すなど奥丹波の有力国人として知られていた。やがて天正三年、明智光秀の丹波攻めがはじまると、
ときの城主大槻左門清秀は赤井氏らと結んで抗戦したが、敗れて高城は落ち大槻氏は没落したという。
(一部怪しいところは調整した)
南山麓−島萬神社近くより城址を遠望(左のピーク、右ピークは坊主山城址)
城址への登り道は国土地理院の地図を見ると東・南・西の山麓から登山ルートがあり、東山麓から山上のNTT基地局に通じる山道が一般的なようだ。われわれは南山麓に鎮座する島萬神社に参拝し、すぐ西方にある教願寺裏手の切り通しに発見した山道から高城山に分け入った。山道はところどころ灌木や羊歯に覆われて消え入りそうなところもあったが、尾根筋の砦と思しきピーク、
土橋状の地形などを越えていくと城域西方を画する堀切へとたどり着くことができた。
南山麓に鎮座する島萬神社 尾根筋の土橋 城域西端の堀切と土橋 西曲輪の塹壕状横堀(点線部)
山道は堀切を越え曲輪に平行して続き虎口へと至り、西の曲輪群へと攻め込むことになる。城址は樹木が繁っているが探索に難儀するほどではない。曲輪は東尾根筋へと段状に連なり、西曲輪群の主郭部の北方に塹壕を思わせる帯曲輪が捲き、東方には登り土塁で南面を固めた腰曲輪が付属する。登り土塁がそのまま城道となり主曲輪部の西端曲輪へと至り、段状に連なる曲輪、曲輪を隔てる切岸などが確認できるが、曲輪群は灌木に覆われていて探索は諦めざるをえなかった。
登り土塁か? 西腰曲輪の切岸 主郭虎口へのアプローチ 主郭の繁茂する木々と朽ちた祠
登り虎口より足を踏み入れた山上の主郭は潅木に覆われ、崩落した秋葉神社の祠が空しく朽ち果てつつあった。祠のとなりに城史を記した生々しい黄塗りの説明板がポツンと立てられ、生い茂った草叢のなかに四等三角点が埋まっている…、想像していた以上に荒涼とした光景である。城址そのものの残存状態は良好、綾部一帯には高城大槻氏の後裔を称する大槻家も少なくない、せめて東尾根のNTT基地局くらいに手入れされれば先祖を顕彰する素晴らしい史跡になるのにと、余計なことながら惜しまれた。
とはいえ、西方尾根より主郭に連なる曲輪群、主郭東方に築かれた土塁など山城としての見どころは少なくなかった。なににもまして圧巻だったのは主郭東方直下に切られた大堀切で、主郭との高低差は十メートル以上、二つの土橋を伴い、両端は竪堀として斜面に落とされている。山歩きの疲労と繁茂する潅木にグッタリしているときに出会っただけに、その素晴らしさに見入ってしまった。
主郭東の大堀切 (手前土橋)
『日本城郭大系』によれば、高城城は応永十三年(1406)の地震により大破したと伝えられている。また、大槻氏は延徳元年(1489)に、荻野氏・位田氏らとともに国人一揆を起こして一時期勢力を失った。そのようなこともあって、高城山城は荒廃した時期もあったのだろう。その後、戦国乱世のなかで勢力を回復した大槻氏は、たびたび上洛して将軍に拝謁するまでになった。いまに残る遺構はそのころに築かれ、整備・改修されていったものと考えられる。そして、南に伸びる尾根のピークには坊主山城、
さらに島萬神社の手前の小山に島萬館、北西山麓や矢田川を隔てた南西山麓にも城館を築いて高城城砦群ともいうべき山城が形づくられたのであろう。
綾部市の南部地域に散在する山城を調べると大槻氏の名が頻出する。大槻氏の歴史を系統立ててたどることは困難となっているが、今回登った高城山城、既に登った高津城・栗城など大槻氏の築いた山城群は、大槻氏の勢力が相当なものであったことを語り伝えている。明智光秀の丹波攻めによって多くの史料が失われたとはいえ、綾部の各地に残る山城、大槻各家の存在が、
大槻氏の歴史ひいては綾部の中世史に一筋の光をあてくれるように思われるのだが…。
● 登城 : 2011年5月3日
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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