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戦国山城を歩く
口丹波の小さな山城、穴太城址
京都亀岡から篠山を経て姫路に通じる国道372号線を篠山に向かって走ると、
犬飼川を越えてすぐのところに穴太寺の標識があらわれる。左折して穴太寺方面に走ると
すぐ右手前方に小山が見え、その麓には小幡神社が鎮座している。その小山に
穴太城址の遺構があり、小幡神社の摂社稲荷社のすぐ左手が登り口である。
穴太城は長谷山城ともいわれ、応仁・文明の乱のころ、西軍方に敗れた
西岡被官衆の有力者野田泰忠は応仁三年(1469)「丹州穴太」に退き、長谷山城を拠点として
巻き返しを図り、その後、摂津へ転戦したことが『野田泰忠軍忠状』から知られる。
城址は東方を流れる犬飼川の曲輪群を主体部として、南に伸びる尾根上に臨時的な
曲輪群を築いたようだ。野田氏が築いた城はおそらく砦状のもので、戦国期に至って
現在に残る遺構に整備されたようだ。
戦国時代、穴太城を舞台とした戦いがあったようで、細川晴元は田所氏のに対して
「穴太長谷山」合戦における活躍を賞している。その後、永禄十年(1567)ごろ、内藤備前守の
与力赤沢加賀守が「長谷の城を相抱へ」ていたことが『信長公記』に記されている。
赤沢氏は細川内衆赤沢氏の一族と思われ、丹波と摂津の境目に位置する笑路城主中沢氏と
姻戚関係にあったことが知られる、ともに細川氏の被官同士として、丹波の入り口を固めていたものであろう。
・北尾根曲輪に残る土塁
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登り道 ・ 切岸と腰曲輪 ・ 犬飼川側の帯曲輪 ・ 三段目曲輪の土塁
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城址中央の堀切 ・ 堀切から続く竪堀 ・ 南曲輪の切岸と腰曲輪 ・ 切岸と帯曲輪
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城址南端の堀切 ・ 穴太寺 ・ 小幡神社本殿 ・ 小幡神社の神紋-一つ巴
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……………
小幡神社より北尾根先の城址に登ると、数段の曲輪が三段続き、三段目の南辺に土塁が築かれ
その先の堀切で城址は南北に区画されている。南曲輪は前方後円墳をベースに築かれたといい、
円墳部はそのまま切差となり、方部は帯曲輪となっており、大掛かりな土木工事は施されていないようにみえる。
南曲輪の南尾根は堀切が切られ、北尾根部の城域を確定している。
主体となった北尾根曲輪群、南尾根に築かれた二つの曲輪群を併せてもまことに小さな城であり、
自立した勢力を保つのは難しかったであろうと想像される。
城址から歩いてすぐのところにある穴太寺は、慶雲年間(704〜708年)に大伴古麿によって
開創されたという古刹で、身代わり観音の寺、西国二十一番の札所として多くの参拝者を集めている。
城址登り口に鎮座する小幡神社は、和銅元年(708)に建立された延喜式内社で
丹波守護細川氏のも崇敬を寄せた神社である。また小幡神社は大本教の出口王仁三郎が
神の啓示を受けたところとしても知られている。
西国札所の穴太寺に参り、小幡神社に参拝し、穴太城址に登って帰るというのも
いい功徳になるかもしれない。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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