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安東氏
備前国安東氏は藤原北家流といわれ、「我が世をば…」で有名な藤原道長の六男長家から出たと伝える。長家の子道家の次男安秀がはじめて安東氏を名乗った。安秀は、伊豆を領有していたといい、坂東の「東」を藤原の「藤」にかけて安東を名乗ったと考えられる。
秀正の子為泰の代に至って久保木、後に真加部城主となっている。徳兵衛盛次の子平左衛門は宇喜多家に二千石で仕えた。関ヶ原の合戦で宇喜多家が改易された後は、姫路の池田輝政に仕え、八百石を知行したという。
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伊賀氏
藤原秀郷の後裔で、鎌倉初期の朝光が伊賀守だったことから伊賀姓を呼称したとされている。朝光は二階堂行政の子ともいい、鎌倉幕府の宿老として活躍した。
戦国時代、伊賀守久隆は津高郡虎倉城を拠点として活躍した。はじめ金川城主松田氏とともに美作に進出してきた尼子氏と結んでいたが、のち、宇喜多家と結びその娘(妹ともいう)を娶った。永禄十一年(1568)には直家に加勢して松田氏を攻略、津高郡北部のほか上房郡南部、真島郡南部を領有し、備前進出をめざす毛利氏に対する宇喜多勢の最前線を守った。
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清水氏
清水氏の出自等については不詳である。一説によれば田使首の後裔で、源平時代に平清盛に使えた難波三郎経遠の裔とするものもある。萩藩清水氏の書上には、宗治以前は不相知とある。
天正二年(1574)、毛利氏の麾下に属し、小早川隆景の勢力に入り、数々の戦功をあげている。同六年には、須々木・秋山両氏をも征服した。同十年、中国平定のため織田信長の部将羽柴秀吉、蜂須賀正勝、黒田孝高らが進出、備中境の七城−宮地山・冠山・高松・鴨・日幡・松島・庭瀬−が毛利氏の前線となった。
秀吉は後世に名高い「水攻め」によって高松城を包囲し、高松城は湖の孤城となった。宗治は、城兵の命を救う為、1582年6月、湖上に舟を浮かべ自刃した。
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新見氏
中世、備中国新見庄を本拠とし、同地方に勢力を持った国人で、承久の乱(1221)後、新見庄の新補地頭として補任され、土着したものと思われる。その出自などは不祥である。
新見氏のなかで、戦国時代中期に出た国経が著名。国経は蔵人を称し、室町将軍家の有力者である細川政賢の口入により、明応十年(1501)から新見庄の西方・領家方の代官職を請け負い、実際の所務は一族の又三郎政直が執行した。そして、庄内の支配を通じて農民の被官化を図った。
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江見氏
美作国英多郡江見庄鯰村鳥坂山城主にして、家伝によれば赤松氏の庶流という。おそらく、美作管家党のひとつであろう。美作国江見荘を名字とした美作の有力国人領主であった。
江見景俊は暦応四年、足利尊氏に従って戦功を挙げ、感謝状を賜っている。以後、助頼−頼房−忠頼−行頼と続き、代々江見城に拠った。天文のころ、小太郎秀雄が名をあげ、その子秀房は河副久盛の麾下で活躍している。しかし、その子秀清のとき、宇喜多氏に攻められて破れ江見氏は没落したという。
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中島氏
鎌倉時代の末期に中島丹後守隆家が高野郷地頭職に補せられ、康永三年(1344)その子次郎右衛門幸家が父の譲りを受けて地頭になったのだという。一説に幸家を高行として、高行は外祖父二階堂貞衡の嫡子行直の跡を受けて二階堂氏を称し、高行の弟高貞が中島氏を継いだともいう。
中島輝行は、父氏行が長門の大内氏に加勢して出雲へ出陣中、和気郡天神山城主浦上宗景の軍勢に経山城を攻められたが、よく防戦して浦上勢を撃退した。永禄二年(1559)、虎倉城主の伊賀久隆が毛利方の上房郡竹庄・吉川を侵したとき、藤沢城の守将として防戦、進んで伊賀方の鼓田城を攻めてこれを乗っ取った。
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新免氏
新免氏は赤松氏の一族といわれ、室町時代中期以後、美作国吉野郡に住し粟井城・小房城に拠って勢力を振るった。「新免家譜」によると、新免氏の祖は藤原北家徳大寺実季に出たというが、もとより信じることはできない。ともあれ、実季の子という則重のとき、勅免を得て新免氏と号したとされる。
則重は粟井を居城とし、その子新免長重は小房城に移り、播磨の赤松氏に属した。そして、美作国人連合の盟主となった。そして、貞重のとき竹山城を築き、以後、竹山城を本拠とした新免氏はよく乱世を生き抜いたのである。
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美作菅家党
菅原氏は、天照大神の第二子天穂日命を祖とし、野見宿禰は垂仁天皇の御代に土師連の姓を賜っている。宇庭は阿波守、安人は和泉国秋篠に住んで、丹波・備前・備中の守などを歴任した。
道真の曾孫資忠の次男良正は正暦年中に遁世して、美作国勝田郡香爐寺に移り住んだ。良正から数代を経た知頼は美作守となり、在職中に作州勝田郡で死去。その子真兼は都に帰らないまま押領使となって作州に住み着き、美作菅党の祖となった。
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難波氏
平安時代末期、備前国の武士に難波(Naniwa)氏がいた。難波氏はのちに「なんば」と訓むようになった。難波氏は、本姓は田使首で、その系図は『古代氏族系譜集成』に「田使首」として掲げられている。
戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興した政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられている。行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称した。
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花房氏
系譜によれば、足利義弁の子職通が、常陸国久慈郡花房に住して花房を名乗ったのが始まりというが、その出自は不詳というしかないようだ。
職之の一代で戦国武将としての地位が確立した。職之の出生地は美作国内といわれ、その活躍の場は美作が大半を占めていた。はじめ浦上氏の被官明石景行に属したが、間もなく宇喜多直家に従った。以後、直家の美作国内攻略の主要な勢力となった。
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戸川氏
家譜によれば、河野通信の後裔稲葉通弘の四代の孫富川正実が、備中児島に住し、宇喜田能家に仕えた。その子定安が富川を称し、孫秀安が戸川に改めたという。おそらく美作国苫西郡富川より出た菅家の一流であろう。
戸川秀安は美作の叔父富川入道のもとで育てられ、はじめ正利と名乗り、直家をよく補佐してその創業を助けた。永禄十年の明禅寺合戦、天正六年の播州上月城攻め、同九年には児島八浜合戦など数多くの戦陣を踏み功をたてた。
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・各氏の詳細に関しましては-
[中国・四国編] をご覧ください。】
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