永禄元年(1558)頃から安芸の国人領主であり、備後を平定した毛利元就が備中に侵攻。鴨山城主細川通薫は毛利方に属した。同五年、元就の嫡子隆元は備中守護に任じられた。備中国最後の守護であった。永禄八年(1565)毛利氏は美作に侵攻し、翌九年、尼子氏を富田城に滅ぼし、毛利氏は本格的に美作攻略に乗り出した。このころ、美作は尼子氏の手を離れ、宇喜多直家が支配しており、毛利・宇喜多両氏は抗争を繰り返した。元亀元年(1570)宇喜多氏被官花房職秀は荒神山城を築き、美作支配の拠点とした。
一方、備中国で勢力を拡大しつつあった成羽城主の三村家親・元親父子は毛利方に属し、美作に侵攻するが、同九年家親は宇喜多直家によって暗殺された。翌年、家親の子元親は石川氏・庄氏ら備中国人を結集して宇喜多直家と備前明禅寺で戦うが敗北。この合戦は、二万の三村軍に対し、五千の勢しか持たない直家がその命運をかけて戦った会心の勝利であった。以後、備中には宇喜多氏の勢力がおよぶこととなる。 永禄十一年、直家は虎倉城主伊賀久隆を味方につけ、明禅寺合戦に日和見を決め込んだ松田元輝・元賢を攻め、金川城を陥し松田氏を滅ぼした。さらに元亀元年(1570)には、金光宗高の拠る岡山城を奪取した。天文元年(1573)、宇喜多氏の勢力が拡大し、美作には再興尼子氏・毛利氏が侵入したため、浦上宗景は織田信長に通じた。宇喜多直家はこれに反発して毛利方に属し、同二年岡山城に入城、そこを本拠とした。 明善寺の合戦に敗れた三村元親はその後、勢力を回復し、元亀元年、松山城を攻めて庄氏を滅ぼし、同二年には佐井田城を奪取、元親は本拠を成羽城から松山城へ移した。 天正二年(1574)織田氏と結んだ浦上氏に抵抗するため、毛利・宇喜多氏は連合した。宇喜多氏に反抗していた三村氏は、以後毛利氏を離れて松山城に籠った。翌三年、毛利氏は三村方の国吉城・鬼身城を攻略し、松山城も攻め落とし、三村氏は滅亡した。これまで宇喜多直家は主家浦上氏に対して敵対することはなかたが、同五年、直家は、天神山城に拠る浦上宗景を攻め破り、浦上氏は没落。さらに進んで、浦上方の美作三星城主後藤勝基を攻め滅ぼした。かくして、宇喜多氏は備前・美作・播磨の一部を支配する戦国大名に成り上がった。 ・明禅寺合戦場址 羽柴秀吉の中国侵攻 このころ、播磨には織田信長の部将羽柴秀吉が侵入。播磨の諸大名を降し、あるいは滅ぼしてついにその最前線は備前に迫った。これに対し、宇喜多直家は初め毛利氏に属して、上月城の合戦などに援軍を送って秀吉軍と戦ったが、天正七年、直家は秀吉方に降った。宇喜多氏の被官伊賀久隆は、毛利氏に攻撃され、城は落城。久隆の子家久は毛利方に降ることになる。 天正七年から九年にかけて、小早川隆景、吉川元春の率いる毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開、備中忍山合戦では宇喜多源五兵衛・孫四郎父子、備前八浜合戦では宇喜多基家が討死するなど、直家は苦戦を強いられながらも辛うじてこれを防戦していたが、ついに病を得て天正九年二月、死去した。 直家の死後、その子秀家が跡を継いだ。秀家は秀吉に属し、翌年、毛利方の清水宗治が守る備中高松城攻めに参加した。同年六月、本能寺の変で織田信長が横死したことを契機に秀吉と毛利氏は和睦し、備前・美作と併せて備中も宇喜多氏の支配下となった。 天正十年、毛利氏が秀吉の麾下に入ると、美作は宇喜多氏の所領となった。毛利方である高山城主草刈景継、岩屋城主中村頼宗らは激しく抵抗。翌十一年、秀吉は蜂須賀正勝・黒田孝高らを遣わしてこれを鎮圧した。 その後、「中国大返し」といわれる兵の撤収を行った秀吉が、明智光秀と京山崎の合戦に破り、天下人に駆け上ると、宇喜多氏は豊臣大名となり、関ヶ原合戦で西軍の中心となって奮戦、敗れて没落したことは歴史に刻まれている通りである。 戦国時代、備前・備中・美作を舞台に数多の武将たちが合戦に明け暮れた。美作の三浦氏・後藤氏、備前の浦上氏・宇喜多氏・松田氏、備中の庄氏・三村氏などなど、そして、三国に侵攻してきた出雲の尼子氏、安芸の、毛利氏など。その多くは合戦のなかに滅び、備前・備中・美作の三国を最終的に支配した宇喜多氏も没落した。まさに戦国の無常・空しさを感じずにはいられない。 |
CONTENTS
●戦国通史 ●戦国大名伝 ●三強の居城 ●国人領主と家紋 ●武将家紋地図 ●戦国武将割拠図 ●宇喜多直家伝 |
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