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戸川氏
星梅鉢
(伊予河野氏後裔/美作菅家党)

 家譜によれば、河野通信の後裔稲葉通弘の四代の孫富川正実が、備中児島に住し、宇喜田能家に仕えた。その子定安が富川を称し、孫秀安が戸川に改めたという。『藩翰譜』には、藤原達安は秀安の男とある。秀安の父は生国安芸国で、備後に移り住む。その子秀安が宇喜田直家に仕えたとある。おそらく美作国苫西郡富川より出た菅家の一流であろう。
 秀安の父定安は、能家の妾腹の子で正実の養子となったともいわれている。天文三年(1534)、能家討死後、備後門田へ逃れた定安はまもなく死亡、秀安は美作の叔父富川入道のもとで育てられ、天文十二年頃宇喜多直家が浦上宗景のもとに出仕するや、その近侍として仕え、姓を戸川と改めた。秀安は、はじめ正利と名乗り、直家をよく補佐してその創業を助けた。永禄十年の明禅寺合戦、天正六年の播州上月城攻め、同九年には児島八浜合戦など数多くの戦陣を踏み功をたてた。
 天正三年(1575)、備中兵乱後は児島常山城を守り、知行二万二千石。同十年、嫡子達安に家督を譲り引退するまで宇喜多家第一の長臣として国政を執った。同十二年、肥後守に叙任し、豊臣秀吉から諱字をもらい秀安と名乗った。
 達安は、備前辛川の役に初陣の殊功を挙げ、父秀安の後を継いで児島常山城を守った。宇喜多家の侍大将として備中高松の陣をはじめ各地の合戦に出陣、朝鮮の役では加藤清正をオランカイ境に援け、また小早川隆景とともに碧蹄館で明軍を打ち破った。
 のちに国政をめぐって長船紀伊守・中村次郎九郎等と対立。慶長四年(1599)、岡家利・花房正成.宇喜多詮家等とともに大坂在留中の宇喜多秀家に長船等の成敗を求め、逆にその勘気を蒙り討手を差し向けられんとしたため、家利・正成等と大坂玉造の詮家の邸に立て籠った。翌五年、大谷吉継らの扱いで徳川家康に預けられた。
 関ヶ原の役では東軍に属して岐阜城攻めに功をあげ、戦後、備中庭瀬で二万九千二百石を領した。しかし、曾孫安風のときに嗣なくして改易。家名は安風の弟逵富が、九千石の旗本として伝えた。


■参考略系図

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