美作国高野郷の西北に美作の一宮中山神社があり、そこの社家は中島氏といって、備中から移ってきたらしい有木氏と並び、神主職を務めていた。中山神社社家の中島一族で武士になったものがその祖であるようだ。 鎌倉時代の末期に中島丹後守隆家あが高野郷地頭職に補せられ、康永三年(1344)その子次郎右衛門幸家が父の譲りを受けて地頭となったことは確かだが、一説に幸家を高行として、高行は外祖父二階堂貞衡の嫡子行直の跡を受けて二階堂氏を称し、高行の弟高貞が中島氏を継いだという。さらに二階堂高行の曾孫政行の子近江守氏行のときに中島に復したともいう。 戦国時代賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行は、自己の体験した合戦とその功績を子孫に知らしめるために『中国兵乱記』を著わした。 『中国兵乱記』と中島氏 それによれば、中島氏は本姓を二階堂と称して、その祖とされる政行は将軍足利義稙の近侍であったが、永正六年(1509)に義稙の秘命を帯びて備中に来住したという。政行は初め、浅口郡片島に居城していたが、のち経山城に移り、以後氏行・輝行・元行と四代にわたって居城した。平常の住居は小寺村にあり、南北三町、東西四町、四方に二重の堀をめぐらしていたと同書にみえている。 中島氏は備中来住以来、幸山城主石川氏、松山城主高橋氏をはじめ近隣の国侍清水・祢屋・日幡氏等と縁を結び、初め大内氏、のち毛利氏幕下に属した。 中島輝行は、父氏行が長門の大内氏に加勢して、出雲へ出陣中、和気郡天神山城主浦上宗景の軍勢に経山城を攻められたが、よく防戦し浦上勢を撃退した。永禄二年(1559)、虎倉城主の伊賀久隆が毛利方の上房郡竹庄・吉川を侵したとき、藤沢城の守将として防戦、進んで伊賀方の鼓田城を攻めてこれを乗っ取った。翌年、毛利元就が出雲富田城に尼子義久を攻めたとき、小早川隆景に属してこれに従軍し、尼子方の白鹿城攻めに先陣を務めて城主松田蔵人助を生け捕る功をあげた。つづいて馬新潟原の戦いでも武功をあげ、元就から出雲仁多郡竹崎村ほか二ケ村を賜った。 永禄四年(1561)、禰屋与四郎らが守る備中方の上道郡龍の口城を、同郡沼城の宇喜多直家の軍勢が包囲したとき、加勢として出陣、直家方の岡利勝らが守る矢津谷の要害を攻めてこれを撃退することに功をあげた。同十年、備中松山城主三村元親に加勢して備前へ出陣、明禅寺合戦で討死した。 輝行の子が元行で父と同じく明禅寺合戦に参加し、宇喜多に寝返って備中勢敗北の原因をつくった野田大炊介を討ち取っている。元亀二年(1571)、備中勢の多くが毛利氏に加勢して九州へ出陣していた留守に出雲の尼子勢が備中南部まで侵入、経山城へも押し寄せたが、奮戦のすえにこれを撃退した。天正二年七月、石山本願寺に加勢した毛利氏が兵糧を送ったとき、警護のために出陣。同年十二月、毛利氏を離叛した三村元親により、備中兵乱が起こると、毛利勢の案内者として国吉城、鶴首城、鬼身山城、松山城の攻略に殊功をあげ、三村氏滅亡後、その遺領かのうちから2000貫の地を恩賞として賜った。 天正六年には、毛利氏に従い播州上月城攻めに出陣、帰陣後、小早川隆景の命で清水宗治とともに備中の仕置に当たった。翌七年、宇喜多氏が毛利氏を離反し、その後再三にわたって備中へ侵入してくると、宗治と協力しこれを撃退した。元行は義父清水宗治とともに終始毛利氏に忠節を尽くして数々の戦功を挙げた。 同十年、備中高松の役が起こると、宗治を助けて一族とともに高松城に籠城し、城兵の指揮に当たった。宗治に殉じて自害しようとしたが許されず、役後の処理と境目の仕置きに当たった。 中島氏のその後 高松の役後、小早川家に仕えた元行・義行父子は、隆景没後、小寺村に帰住、のち義行は「故あって」元行から勘当され次男治左衛門を連れて、越前少将徳川秀康に出仕した。小寺村の中島家は義行の長子政行が元行の惣領となって家督を継いだ。 関ヶ原の役後に蒔田氏が領主として入部してくると、蒔田氏から客分として処遇された。その後、八代行斎のときから郷士となって明治維新に至ったと伝える。一族は二階堂または中島を名乗り蒔田家や岡山藩主池田家に仕えた者もあった。 元行の著わした『中国兵乱記』は、自己の手柄を強調せんとしたところも少なくないが、自らの体験や見聞をもとに書かれたものだけに、史料として貴重な第一級の戦記物といえるものである。 ■参考略系図 ・尊卑分脈にある二階堂氏系図をベースに、諸本のものを併せて作成。 |
●Ver.1 系図 |