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難波氏
巴*
(田使首後裔)
*家紋不詳。同族の清水氏が巴紋を
 使用、また岡山県の別流難波氏も
 巴紋を使用していることから推測、
 掲載した。一説に違い鷹の羽とも。


平安時代末期、備前国の武士に難波(Naniwa)氏がいた。難波氏はのちに「なんば」と訓むようになった。『保元物語』「官軍勢汰」の条の、安芸守平清盛に従う郎等に「備前国住人難波三郎経房、備中国住人瀬尾太郎兼康」とあり、また『平家物語』にも、清盛が難波次郎経遠を召し出したことが見える。さらに『源平盛衰記』には、備前国住人難波次郎経遠、六郎経俊、三郎経房、難波五郎田使俊行などが見える。経遠は清盛の腹心であり、俊行の母は平重盛の乳人であった。
 この難波氏は、本姓は田使首で、その系図は『古代氏族系譜集成』に「田使首」として掲げられている。その先祖は葛城直で、大和国に起こり、葛城山田直広主の子瑞子が、欽明天皇の十七年、備前国に児島屯倉が設けられたとき、その「田令」に任じられ、田使首の姓を賜わったのにはじまる。このことは『日本書記』にも見えている。
 系図によると、瑞子の子息海は大化二年(645)児島評造に任じられており、その子枳波美は児島郡大領で、その子男麻呂は少領をつとめ、その曾孫緒主から津高郡の郡司家となり、緒主の曾孫諸主が津高郡駅家郷難波に住み、子の津高郡少領田使千世が難波大夫と称した。この千世の子孫が難波氏で、鎌倉時代初期までに、津高・松尾・横尾・笠加・坂崎・野口・久米・三次・安江などの諸氏が分出しており、備前国の大族であった。
 千世から六代に経信が出て、その三子が太郎経友・二郎経遠・三郎経房で、経房の子が六郎経俊である。前記の平家の郎等の名がここに現われる。経遠の子三郎経家も清盛・重盛に仕えたという。その子六郎経宗は、上道郡清水村を領し、清水三郎左衛門尉と称したことから、平家滅亡後、ともかく源氏に属したようである。しかし、経宗の甥田太光功は承久の乱(1221)で宮方に属し、宇治で戦死している。
 弘安四年蒙古襲来に際して、経興は筑前に出陣して博多湾の戦いで戦死した。子の難波新右衛門尉経隆は元弘三年(1333)の船上山の合戦に、名和方に与して功を顕わしたことが知られる。以後子孫は清水・難波を共用、室町期に至り因幡守行資は赤松満祐に属し、嘉吉の乱において討死した。室町期、難波氏から木梨・江崎・木村・豊居などの諸氏が分出している。
 行資の子行隆は鳶淵山城を築いてそこに拠ったが、応仁四年(1470)山名氏に攻められて討死し、その弟行季も文明四年(1472)山名氏のために落城したという。
 戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興した政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられている。行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称した。その子宗治が、豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城主清水長左衛門尉宗治その人である。宗治は備前の戦国時代を生き抜き、毛利氏に属し、秀吉の攻撃にも屈せず、毛利氏への節をまっとうして高松城で自刃したことは、世に知られている。
 先の行豊の兄、行治の子孫は宇喜多氏に仕えた。


■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に掲載されたものを底本として掲載。

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