系譜によれば、足利義弁の子職通が、常陸国久慈郡花房に住して花房を名乗ったのが始まりというが、その出自は不詳というしかないようだ。 職之の一代で戦国武将としての地位が確立した。職之の出生地は美作国内といわれ、その活躍の場は美作が大半を占めていた。はじめ浦上氏の被官明石景行に属したが、間もなく宇喜多直家に従った。以後、直家の美作国内攻略の主要な勢力となった。 永禄九年(1561)、毛利氏の属城美作国院庄での合戦をはじめとして、元亀元年久米郡荒神山に荒神山城を築き、佐良山城、神楽尾城、岩屋城など毛利方の城を攻略した。荒神山城は、美作における宇喜多直家の拠点となっていた。 直家が天正年間に確保した美作国内の城は十三あり、うち八城は職之の抱分となり、残りの五城は奪回されることもあったが、職之抱分の城だけは安泰であったという。その間、備中国斎田をはじめ、撫川城、日幡城にも出陣し、直家に従って播州上月にも遠征している。『宇喜多家侍帳』によれば職之は、美作国内で一万四千八百六十石で与力が十七人が属していたとある。 慶長三年、豊臣秀吉の没後、宇喜多秀家の重臣間に内紛が起こり、職之は宇喜多忠家・詮家、戸川達安、一族の正成らと宇喜多家を退散し、徳川家康の庇護を受けた。 関ヶ原合戦の時、秀家が西軍に属したのに対して彼等は東軍についた。職之は東軍の先手に加わり、西軍壊滅後、宇喜多の領国備前に入って、その戦後処理に当てられた。のち、備中国都宇・賀陽両郡のうち八千二百二十石を領し、その家は明治維新まで続いた。 正成家の方は、秀吉から三万一千石を与えられて、家運隆々たるものがあったが、先の宇喜多家の内紛で、関ヶ原開戦時は蟄居の身であった。それが戦後、家康にまみえて采地五千石を与えられて、旗本家に連なっている。 ところで、花房氏の家紋について以下のような話が伝わっている。 戦国時代、備前国に清和源氏足利氏流を称した花房氏がいた。花房又右衛門が播磨灘を船で通ったとき、海賊に襲われ、弓矢をもって防いだが、矢をきらして進退窮まった。その機に乗じた海賊は船を寄せて花房の船に乗り移ろうとした。そのとき、最後の雁又の矢で海賊の大将の首を射抜き、勢いにひるんだ海賊に「われは花房又右衛門ぞ、雁金紋に雁又矢、これぞ天下の珍高ぞ」と大音声でよばわった。その勢いに恐れた海賊たちは、以後、瀬戸内海を通る「雁金紋」を付けた船は襲撃しなくなったという。 この話から、戦国時代にあってすでに花房氏の雁金紋が瀬戸内にあってかなり有名なものであったことが知られるのである。 ■参考略系図 |