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三強の居城
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●浦上氏の居城、三石城址
 三石城は、播磨と備前との国境にあって、播磨からの出入地でもある要衝の地であった。そのため、鎌倉時代に築城されて以来、たえず攻防戦が繰り返された。
 『太平記』には、「備前・備中・備後・安芸・周防の勢ども、六波羅の催促に依りて上洛しけるが、三石の宿に集まりて、山里の勢を追い払いて通らんとしけるを、赤松筑前守、船坂山にて宗徒の敵二十余似んを生捕てけり。然れども赤松是を誅せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思いをなしければ、先ず己が館の上なる三石山に城郭を構え、(後略)」と三石城創建のことを記している。
 その後、城主はめまぐるしく交代し、赤松氏の重臣浦上氏が城を守り、以後相次いで守護代として在城した。亨禄四年(1531)村宗が戦死すると残された兄弟が不和となり、兄政宗は播州室津城へ、弟宗景は天神山城に移り、三石城は廃城となった。

■写真:三石城の大手門址の石垣


●三村氏の居城、松山城祉
 現在、江戸時代は板倉氏の城下町で当時の城構えが復元されている。創建時代のもは、ずっと北の大松山に、仁治元年(1240)秋庭三郎が築城した。その後城主は、元弘三年(1331)備後三好氏の一族、高橋氏、高氏、秋庭氏、上野氏、庄氏、そして三村氏が居城した。
 正慶元年(1332)頃、高橋宗康が入城し、城域を小松山まで拡張し、城名を「松山城」と名付けたという。
 永禄三年(1560)、成羽城主三村家親が松山城を庄高資から奪い、本拠を松山に移した。元親の代に毛利元就に攻められ落城、三村氏は滅亡した。その後は、毛利氏の被官天野氏、桂氏などが城代として入城した。

■写真:高梁市街に残る武家屋敷跡から城址を遠望


●宇喜多氏の居城、岡山城祉
 岡山城は烏城の別称で知られる。現在の城は近世大名池田氏が居城したものである。最初はもっと西にある石山という小さい丘の上にあり、金光宗高が城主であった。それを宇喜多直家が滅ぼして、旧城を拡張改築して、天正元年(1573)に移ってきた。そして、直家はただちに城下町の形成に着手した。
 岡山城はその後、直家の子秀家が慶長二年(1597)に天守閣を新設した。天守閣を建設するにあたり、旭川を城の下を通るように付け替え、その掘った土を石山の東の小山に積み上げ、その上に天守閣を建てた。構造は安土城をまねて三重六層になっている。
■写真:岡山城の天守閣


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