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江見氏
海老/梅鉢*
(赤松氏流/美作菅家党?)
*美作菅家党の代表紋。


 美作国英多郡江見庄鯰村鳥坂山城主にして、家伝によれば赤松氏の庶流という。おそらく、美作管家党のひとつであろう。美作国江見荘を名字とした美作の有力国人領主であった。恵美・恵比氏とも。
 美作菅家党の一つ。有元氏の三穂太郎満佐の子資豊が、英田郡江見庄を領して江見氏を名乗ったという。『太平記』にも「美作国には菅家の一族、江見、芳賀、渋谷」とみえている。
 菅原道真の三男庶幾は、延喜十一年勅命を受けて、南国に働き軍功を著す、また同年四月伊勢に赴き、数度の戦功をあげ、従四位上に叙し、越中守に任じられたという。その子孫の江見次郎盛方は、平家の侍大将として天盃を賜ったとき伊勢海老を下された。次郎が鎧直垂の袖に受けて頂戴するその姿は勇ましくみえ、叡慮により家紋に賜ったとされる。
 南北朝期、はじめ後醍醐天皇方についたが、江見信盛は足利尊氏の西国落ちにさいし、奈木の山菩提寺にて尊氏のために働く。このとき尊氏から二つ引両の紋を賜っている。以後、戦国時代には赤松氏の被官として台頭した。応仁の乱には京都で合戦に参加していたようだ。江見氏の本来の家紋は「梅鉢」であった。それが、先に記したように「海老」「二つ引両」も使用するようになった。『見聞諸家紋』をみると、江見氏の紋は「海老」と紹介されている。
 江見氏には、播磨守護赤松氏から分かれた家がある。『江見系図』によれば、赤松頼則の末流に江見亦次郎景俊がいる。景俊は永仁四年に生まれ、美作国英田郡江見の城主であったという。
 菅家流江見氏と赤松流江見氏の関係については「菩提寺の城主江見盛則は、後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、備前の松田氏に攻められた。このとき赤松氏に救けを請い、赤松景俊が救援に向かった。しかし、援軍が到着する前に城は落ち、盛則は戦死した。ここにおいて景俊は盛則の跡を継いで江見氏を冒した」とされている。
 景俊は暦応四年、足利尊氏に従って戦功を挙げ、感謝状を賜っている。以後、助頼−頼房−忠頼−行頼と続き、代々江見城に拠った。天文のころ、小太郎秀雄が名をあげ、その子秀房は河副久盛の麾下で活躍している。しかし、その子秀清のとき、宇喜多氏に攻められて破れ江見氏は没落したという。
 美作地方には、数流の江見氏がみられるが、それぞれの関係は詳らかではない。


■参考略系図
    

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