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安東氏
上り藤
(藤原北家道長流)


 備前国安東氏は藤原北家流といわれ、「我が世をば…」で有名な藤原道長の六男長家から出たと伝える。 長家の子道家の次男安秀がはじめて安東氏を名乗った。安秀は、伊豆を領有していたといい、坂東の「東」を 藤原の「藤」にかけて安東を名乗ったと考えられる。

美作に西遷

 その曾孫千代一丸親次が美作國英田郡内七郷の地頭職を与えられ、英田郡山口城主となった。康永元(1342)年、親次は京都尊勝寺が領有していた英田郡内の荘園から上がった年貢を押領したと訴えられ、足利直義よりその弁償をするように裁可を受けている。当時は在地の地頭による荘園侵略が進行していた時期で、親次の場合もその一例といえよう。世にいう「泣く子と地頭には勝てぬ」を彷佛させる話である。記録によると、親次は応永元(1394)年に亡くなったという。
 文明・延徳頃には、政藤が幕府御領所小吉野荘の代官をしていることから、奉公衆番帳に散見する安東氏は一族であろうとされているが、その系譜的関係は不明である。
 安東氏はその後も、備前国に住して秀正の子為泰の代に至って久保木、後に真加部城主となっている。徳兵衛盛次の子平左衛門は宇喜多家に二千石で仕えた。関ヶ原の合戦で宇喜多家が改易された後は、姫路の池田輝政に仕え、八百石を知行したという。その子孫は岡山藩主池田家家臣として続いて明治維新を迎えている。
 一方、山口城主を嗣いだ泰貞の子國貞は織田信長の小姓となっていたが、信長が本能寺で横死後、帰郷して作東町国貞に住んだ。國貞の名が土地の名になったという。国貞の跡を継いだ六左衛門は、浪々して作州にやってきて安東家の娘婿となった者だという。かれは、水野日向守勝成の身持ちが悪いのに意見をしたことから斬られた人物で、六左衛門斬殺後出奔した勝成は、後に徳川家康に仕えて名を挙げ、備後福山十万石の大名となった人物である。この縁によるものか、山口安東貞清の孫助之進は水野家に仕えている。

出自異説

 ところで、安東氏の起源については藤原氏ではなくて安倍貞任とするものがある。神武天皇東征の時に長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)が摂津国から逃れて津軽安東浦に住み着き、その子孫に安倍氏が現れた。安倍氏は岩手県南半を中心として勢力を誇ったが、前九年の役(1051〜1062)において、頼時・貞任の父子は戦死したが、貞任の子高星丸が家臣に守られて津軽に落ち延びた。その後子孫は繁栄し、ほぼいまの青森県全域を支配下におく勢いとなった。
 鎌倉時代の当主貞秀は執権北条氏と結びついて隠然たる勢力を持ち、貞秀の孫愛秀は水軍を操る豪族藤原秀直を撃滅して、十三湊に本拠地を移して制海権をも手に入れ、北は蝦夷地から南は熊野灘、瀬戸内海にまで雄飛した。この勢いは室町時代になって最盛となった。この安東氏の「安」は安倍の「安」だという。このように、鎌倉から室町時代に東北地方に勢力を誇った安東氏の一流が美作国にやってきて住み着いたのが備前安東氏の始まりだという。傍証として、文治・建久年中(1186〜1198)に、安東貞秀が京都に入り、その子孫が安東氏を称したということが挙げられている。
 いずれにしろ、いまとなってはその真実を詮索することは困難としかいいようがない。

【参考:ごさんべーさんのページに多く助けられました】


■参考略系図

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