三好氏
三階菱/三階菱に釘抜 *
(清和源氏小笠原氏流)
*京小笠原松皮菱釘抜とも呼称するとのこと |
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三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族。鎌倉時代のはじめに小笠原長清の子長経が阿波守護に補せられ、その子孫が三好郡に
居住して三好氏を称するようになったのが始まりといわれる。室町時代のはじめ、四国の守護が細川氏であった関係から細川氏の被官となり、
やがて家宰となり勢力を振る打ようになった。
三好氏が畿内に進出するようになったのは「応仁の乱」のときであった。乱にあたり三好氏の主家である阿波守護の細川成之は、
東軍を率いた細川宗家で幕府管領の細川勝元を支援するため京都に出陣した。その時、三好之長が阿波細川氏の中心兵力として従軍した。
これが以後約百年、之長・長秀・元長・長慶・義継の五代が京都・摂津方面で活躍するはじめとなった。
三好氏が全盛期を迎えたのは長慶の時代で、長慶は主家細川氏と対立、下剋上で畿内に地歩を固めた。天文二十二年(1553)、
近江に流浪していた足利義輝を京都に迎え、細川高国の養子氏綱を傀儡管領にすえて、幕府の実権を握った。しかし、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、
長慶が世を去ったのちは内紛を生じ、さらに織田信長の上洛などもあって次第に勢力を失っていった。
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三好氏は小笠原氏の紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組みあわせた「三階菱(松皮菱)に釘抜紋」を用いた。戦国時代の阿波諸将の
幕紋を記録した『古城諸将記』には、勝瑞之城主三好豊前守義賢は「松皮菱釘貫座也」と記されている。他方、戦国時代のはじめに
三好氏の礎を築き上げた三好之長・元長の画像をみると三階菱の下に釘抜を散らした家紋が描かれ、三好氏歴代の位牌には「三階菱」紋
が据えられている。
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● 三好之長(長輝)画像
(見性寺蔵:東京大学史料編纂所データベースから)
『古城諸将記』は元亀三年(1572)、三好氏に属した諸将の幕に紋を印したもので、もともとは『阿波旗本幕紋控』といわれ戦国時代における紋章の歴史を知る貴重な記録である。
同書には前記の三好氏のものをはじめ、大代・板東・赤澤氏ら阿波小笠原氏流諸氏、川端・新開・佐藤・安養寺・粟飯原氏らの
幕紋が記され、阿波の戦国史を探るうえでも格好の史料となっている。
三階菱(松皮菱)は清和源氏武田氏流小笠原氏の代表紋であり、武田菱から派生したものである。一方の釘抜は座金を紋章化したもので「九城(クキ)を抜く」にかけて、好んで武家が使用した。
『見聞諸家紋』には、近江源氏三上氏の家紋としてもみえている。阿波三好氏は釘抜紋のみを単独に用いることもあったようだ。
『三好系図』によれば、釘抜紋はもと阿波国の豪族江侍の用いたモノを、三好氏もまた用いるようになったとある。江侍とは郷侍のことと思われ、阿波国の武士の多くが釘抜紋を用いていたとも解される。ヒョットして、三好氏は阿波国の生え抜き武家であったものが、清和源氏の名流小笠原氏の家系を仮冒したものではなかったか。
三好氏の「三階菱に釘抜」紋と、系図の記述はそのことを言外に語ったものと思われるのである。
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● 左から、三階菱紋 ・松皮菱紋 ・釘抜紋
その後、わたしのサイトをご覧になられた神奈川在住の京小笠原という方より
「三好氏の三階菱(京小笠原松皮菱)に釘抜は京小笠原の本家を示しており、三階菱とは言わず、
京小笠原松皮菱と言います。また京小笠原一族が江氏(江侍)を討った後に京の町で亡霊が出る事件が相次ぎまして、
京小笠原の家紋松川菱に釘抜座を付けたところ、その亡霊も収まったので、
それ以後は本家がこの前例に習い、ずっと京小笠原松皮菱釘抜としたものです。
阿波守護となったものは実は京小笠原の長男で、その為に小笠原から三好となっても、
この家紋を大切に致しました。呼び名も京小笠原松皮(菱)釘抜と言い、
松皮菱の菱はつけることがありましても、釘抜座の座は付けません。」
という貴重な情報をいただきました。おもしろい話なので、ここに紹介させていただきました。
■三好氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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