伊達氏と覇を競った戦国大名
・葛西氏/大崎氏/最上氏/葦名氏
葛西氏
●三つ柏
●陸奥寺池城
葛西氏は桓武平氏で、秩父氏の一族豊島氏の流れである。高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのがはじまりとさている。
南北朝時代に、清貞は北畠顕家に従って軍功を挙げ、磐井・胆沢・牡鹿の三郡に加えて、江刺・気仙・本吉・登米・桃生といった諸郡を大体勢力下に置くことに成功している。
しかし、このように支配領域を広げると、必然的に奥州探題の大崎氏との摩擦を生ずることになり両氏は毎年のように戦いを展開することになるが、葛西氏の方では、伊達氏と同盟を結び、その中間の敵大崎氏を討つという戦略をとった。この戦略は葛西氏の最後の当主である晴信まで堅持された。
しかし、葛西氏の領国経営は常に不安定で、家臣の内乱に悩まされ続け、結局、天正十六年の秋にやっと重臣浜田氏の反乱を鎮圧することに成功し、翌年には伊達・大崎両氏の間で停戦協定が結ばれ、伊達氏と同盟していた葛西氏にもようやく平和が訪れたかに見えた。
その翌年、秀吉の小田原征伐があり、晴信は小田原遅参のゆえをもって所領を没収されてしまい、栗原郡佐沼城に拠って秀吉軍に一戦を挑んだが敗北、葛西氏は滅亡した。
大崎氏
●二つ引両・五三桐
●陸奥名生城
大崎氏は、文和三年(1354)ごろ、奥州探題として下向した斯波家兼を祖とする。斯波氏はもともと足利氏の支流で、鎌倉時代中期には下向し、斯波郡に居住していた。大崎氏は代々探題職を受け継ぎながら、大崎・名生を本拠に強大化していったのである。
しかし、そのような権威的な支配も実力がものをいう戦国時代には通用はしなかった。やがて、伊達氏の台頭が目だってき、ついに伊達稙宗が奥州守護に任目されることになり、それまで代々大崎氏の任ぜられていた左京大夫の官も稙宗に与えられたのである。
天文五年(1536)に大崎領内に反乱が起き、有力豪族、庶流家が当主義直に盾を突くということが起こった。義直は自らの力で鎮圧することができず、伊達稙宗の救援をあおいで、乱にあったったのである。その結果これまでのちから関係はまったく逆転し、伊達氏の武力が大崎領にも誇示され、義直は稙宗の次男義宣を嗣子とすることとなったのである。
なお、大崎氏は天正十六年(1588)の内乱で衰退してしまった。
葦名氏
●三つ引両
●会津黒川城
芦名氏は本姓平氏で、三浦族佐原氏流である。相模国の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされる。
芦名盛氏が出て、家中を統制、また、伊達氏とか結城氏などと婚姻を結び、芦名氏の全盛時代を現出した。遠く甲斐の武田、あるいは相模の後北条と結び、常陸の佐竹氏と戦うようになり、伊達とならぶ東北の大大名に成長したのである。
しかし、盛氏の子盛興が病弱で早く死に、嫡流は絶えてしまった。その後に須賀川城主二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えた。しかし、盛隆は家臣に殺されてしまい、その子亀王丸も二歳で死んでしまった。
相次ぐ当主の交代は葦名家中の動揺を招き、亀王丸のあとを佐竹義重の二男義広が継ぐか、伊達政宗の弟竺丸が継ぐかで家臣間の争いがあり、結局義広が養子に入り家名を保った。このことが伊達氏と摺上原の合戦を引き起こし、葦名氏は敗れ、ついに滅亡した。
最上氏
●二つ引両・五三桐
●出羽山形城
最上氏は斯波義兼の次男・兼頼に始まる。斯波義兼は奥州深題だったが、そのころ最上地方の南朝方の勢力は強く、それを抑える必要から兼頼を出羽に入部させた。
戦国時代になって、近隣諸大名との衝突が始まり、最大のものは伊達氏の山形盆地侵入だった。両者の戦いは
繰り返され、次第に伊達氏の圧迫を受けるようになった。
しかし、最上義光の出現によって危機は回避された。義光は天正十二年、一族の中での重鎮であった天童氏を滅ぼすことに成功し、翌十三年には内陸部の平定を成し遂げているのである。このころから、伊達・上杉・小野寺・武藤・最上諸氏の間で複雑な争いが展開され、一時は最上氏による庄内支配が行われた。
義光は葦名氏や佐竹氏らと謀って伊達政宗を包囲する戦略をとったが、それも天正十七年の摺上原の合戦における
葦名氏の敗北によって、水泡に帰している。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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