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「甲斐二十二将」というものがある。徳川将軍11代家斉のころ甲府の内藤某が書き留めたものである。それには「板垣、甘利、両角、飯富、原加賀、小山田備中、日向大和、小宮山丹後、原美濃、小畠山城、横田、多田、山本、米倉丹後、三枝虎吉、高坂、内藤、馬場、山県、甘利晴吉、秋山、土屋昌次」の二十二人が記されている。
一般にいう、武田二十四将は個人所有や寺社に奉納された画像だが、信玄を中心にしたものと勝頼を中心にしたものの二種類がある。家臣の組み合わせがそれぞれ違っているのは、末孫が家系を誇示するためか、先祖を二十四将の一人に仕立てて描かせたものを、奉納したり子孫に伝えたからだが、原典は「甲斐二十二将」であろう。
しかし、いずれにしても、それぞれの武将が信玄を援けたことは間違いはない。また、子孫にあたる者が先祖を誇って画像として残したことも、うなづけるところである。ここでは、一般的に言いならされている二十四将を取り上げた。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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