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山県氏
丸に花菱/丸に桔梗
(清和源氏多田氏族)


 清和源氏多田氏族。尊卑分脈によれば、源三位頼光の孫・頼綱が多田を称し、その子国直が山県氏を称したのが始まりと出ている。
 昌景は元来、飯富源四郎といい、飯富兵部少輔虎昌の弟である。飯富氏は源満政の末で、兵部のころ信州内山の城を預かる身代であった。兵部はなかなか武略に勝れ、信玄の信任も厚かったが、信玄の嫡子義信の反逆に荷担し、クーデターは未然に発覚して虎昌は誅殺された。この時、虎昌は武田義信の守り役という立場上、昌景にわざと聞こえるように画策し、クーデターを防止したのだという。
 事件後、源四郎は山県氏を継いで、三郎兵衛山県昌景となった。この山県氏は美濃の山県氏といわれ、応永ころ、主計家信が甲州にきて武田家に仕え、孫の河内守虎清のとき嗣が絶え、昌景はその跡へ入ったわけである。
 昌景は信玄の信頼を得て、五百騎の大将として各地の合戦に戦功を挙げ、信玄が駿河国を奪取してからは駿河江尻城代となり四万石を領した。
 信玄が没して勝頼が継ぎ、十年目の天正三年(1575)5月21日、長篠の戦が起こる。この戦に信長は三千五百挺の鉄砲を集めたといわれている。そして、。連子川に沿って、馬防柵を設けた。それに対し、勝頼はかつての武田軍法で一蹴できると思っていた。案じたのは、信玄以来の宿将たちで、勝頼を諌めようということになり、諸将代表として昌景が本陣へ使者にたった。
 その言い分は
「合戦しようというのになさるなというのではない。こちらより攻めかからず、敵に連子川を越させてからの合戦にいたされよ」
ということであった。川向こうに設けられた柵は、歴戦者の予感には不吉なものに映っただろう。
 これに対し、勝頼はただ一言
 「どこまでも命は惜しいらしい」と。
 怒った昌景は小姓衆に酒を注がせ、盃を勝頼にすすめ、
 「手前は討死します、お屋形さまも定めし討死なさるでしょうな」
 こういって退出し、諸将のいるところへ、遠くの方から「みな討死、討死」と大音で言い捨て、はや、馬に打ち乗り、胄の尾を締め、麾下の赤備えを率いて乗り出した。昌景は敵と相闘うこと十三度、銃丸に当たるところ十七ケ所。なおもひるまずに戦ったが、銃弾は雨のようにしげく、ついに落馬したところを討たれた。その報を聞いて、もっとも惜しみ、悲しんだのは徳川家康であったことはよく知られている。
 昌景は武田氏に仕えて、信玄の覇業をたすけ、合戦、戦略、外交、治安、内政などあらゆる面での活躍が認められる武将であった。武田家四臣の一人に数えられる。


■参考略系図


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