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高坂氏
九 曜
(出自不詳)


 元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡し、建武新政が発足したが、建武二年(1335)信濃では北条高時の遺児時行を奉じて北条氏の残党が挙兵した。いわゆる「中先代の乱」で、信濃の北条系武士がこれに参加し、鎌倉に攻め上りこれを占領したがわずか二十日で鎮圧された。しかし、この乱の余波は信濃各地に及んだ。

南北朝期の香坂氏

 翌年、香坂小太郎入道心覚が牧城に拠って兵を挙げると、信濃惣大将の村上信貞は市河・高梨らの諸士を率いて牧城を攻撃した。この間府中でも反乱が起こり、心覚は勢力を盛り返してふたたび牧城に拠った。村上信貞・高梨経頼・小笠原信貞らの連合軍はふたたび牧城を攻撃し、二日間にわたり激しい戦いが行われ、結局、心覚は敗れて没落した。
 その後の南北朝内乱期、信濃国伊那郡大河原を支配する香坂高宗は、宗良親王を奉じて信濃国の南朝方として活躍した。宗良親王は大河原を拠点として、興国五年(1344)から文中二年(1373)までの約三十年間にわたり、上野・武蔵などに出馬し、東国・北陸の宮方勢力の振興に苦心画策し信濃宮とよばれた。
 大河原で宗良親王を支えた香坂高宗は、更級郡牧城によって村上・高梨・市河らの足利党と戦った北条与党の香坂心覚の一族で、その祖先は滋野氏であり佐久郡香坂を名字の地とした。高宗は天竜川左岸の伊那郡大草村を本拠とし、大河原・鹿塩を支配して宗良親王を大河原の地に迎えたのである。また、宗良親王は「大草宮」「信州幸坂宮」とも呼ばれていた。幸坂は香坂のことにほかならない。
 その後、宗良親王は新田党のいる越後に移り、越後の宮方勢力を回復したが、正平十年(1355)信濃守護小笠原長基に敗れてふたたび信濃に帰った。そして、諏訪に入り信濃の南朝方を結集して、桔梗ヶ原で小笠原長基と一大決戦をしたがここでも敗れてしまった。以後、大河原城に籠っていたが、信濃の南朝勢力は振るわず、ついに文中三年(1374=応安七年)に吉野へ帰っていった。

信濃の国人、香坂氏

 明徳三年(1392)、南北朝が合一され室町幕府体制が確立した。その八年後の応永七年(1400)九月、信濃守護小笠原長秀と守護専制に抵抗した村上満信ら信濃国人らとの間に「大塔合戦」が起こった。戦いは守護小笠原氏はが国人連合に敗れて京都に逃げ帰るという結果に終わった。この大塔合戦で、国人連合に参加した武士の一人に香坂左馬亮入道宗継の名がみえている。
 その後、永享十年(1438)関東で「永享の乱」が起こり、鎌倉公方足利持氏は幕府軍に敗れて自害し鎌倉府は滅亡した。鎌倉を逃れた持氏の遺児春王丸・安王丸らは下総結城城の結城氏朝を頼り、旧持氏勢力を糾合して結城城に立て籠った。これに対し幕府は上杉清方や小笠原政康に命じて結城城攻撃に向かわせた。このとき、信濃武士の多くが小笠原氏に従って出陣した。
 結城城包囲の滞陣中、信濃武士は大武士団は単独で、小武士団は数氏でとうふうにして三十組に編成された。この次第を記録したのが『結城御陣番帳』で、その一番は政康の嫡子小笠原宗康で、以下、高梨・須田・井上・若槻と続き、十二番に香坂殿が単独でみえ、当時における香坂氏の勢力をうかがい知ることができる。以後の香坂氏は、信濃の国人領主の一人として諸記録に散見し、動向は不明ながらも戦国時代に至ったようである。
 江戸時代の米沢藩士の記録である『米府鹿子』なかに香坂氏がみえ、「滋野」「本国信州」とあり、「竪二つ引両」の家紋を用いたことが知れる。おそらく、武田氏の北信濃侵攻のとき、他の北信濃国人衆らとともに越後の長尾景虎を頼り、そのまま上杉氏の家臣となったものであろう。

信玄の寵童、春日弾正

 さて、武田信玄の麾下の武将に高坂弾正がいた。高坂弾正といえば、武田信玄の寵童、対上杉謙信勢の最前線に位置した海津城将、甲州流軍学の書『甲陽軍鑑』の原作者であったという、美貌・猛将・知性の三つの顔をもった武将であった。
 高坂弾正は、武士の出自ではない。武田軍の兵糧集めを引き受け苗字帯刀を許されていた伊沢(石和)の大百姓、春日大隅の子として生まれた。十六歳の時、信玄の近習小姓に召された。戦国の世では男色は変態行為ではなく、武将のたしなみですらあった。すべての小姓が寝床で伽をつとめたわけではないが、主君と夜も共にした寵童は、文字通り心身ともに許す腹心となる。そして、こうした寵童のなかから主君の影響を受けた将来の英傑が出ている。上杉謙信における直江兼続、織田信長における前田利家、そして、武田信玄の寵童高坂弾正などである。
 春日源助が信玄から寵愛を受けたことは、信玄が源助にあてた「愛の誓詞」で知られ、その現物はいまも東大史料編纂室に所蔵されている。とはいえ、信玄に仕えて夜伽をおおせつかった者は源助以外にも何人かいたはずだが、そのなかで源助は単なる男妾には終わらなかった。源助は晴信の側近の立場を踏み台にして、武田軍の有力武将に成長したのである。
 天文十一年(1542)、武田軍の信濃侵攻に際して源助は「使番」として出陣し華々しく戦った。源助は読み、書き、算盤に通じていたことから「使番」に登用されたようだが、戦国時代にあって高い評価を受けるのは、やはり戦場における働きであった。
 天文二十一年、武田軍は信州安曇郡の小岩岳城を攻撃した。前年にも小岩岳城を攻撃したが、落城させることはできずに兵を解いている。そして、二度目の小岩岳城攻撃に従軍した春日源助は、陣頭に立って奮戦し城内に駆け込み、武田軍を城内に導き、城将小岩岳図書を自刃に追い込む大活躍を示した。戦後、城攻めの最高殊勲者として百五十騎の侍大将に抜擢された。ここに、春日源助は戦場での働きを大方から認められ、名も春日弾正忠正忠と改めたのである。
 信玄の当面の強敵は、生涯を通じて越後の上杉謙信であった。弘治二年(1556)、川中島に至る謙信側の軍事拠点である尼飾城を真田幸隆に攻めさせ、援軍として正忠軍を投入、尼飾城を陥落させた。さらに来るべき謙信との決戦に備えて、川中島を見下ろす要衝に構築させた海津城の守将として正忠を任命したのである。

春日弾正、高坂氏を継ぐ

 任務としては、これほど厳しいものはない。本国からも本隊からも遠く離れた陸の孤島に、わずか四百五十騎の手勢で籠り、死守せねばならないのである。信玄は海津城を守備する春日正忠に対し、諸豪族を味方につけるためには土地で尊ばれる名字に変えることが効果的であると考えて、滅亡した香坂某の妹と弾正を結婚させた。伝えられる系図によれば、香坂某は南北朝期に南朝方に忠を尽した香坂氏の一族であった。ここに、春日弾正は北信の名家を継いで香坂弾正忠昌忠と改名したのである。
 永禄四年(1561)、前後五回にわたって戦われたという川中島の合戦のうち最も激戦となった第四回の戦いが行われたが、弾正は海津城の守将としての任を尽くすため直接の戦いには参加しなかった。その後、信玄の西上野侵攻作戦に従軍し、永禄九年(1566)の箕輪城の攻防戦では武田軍の一方の旗頭として奮戦した。箕輪城攻略後、弾正は信州守備の任を解かれて甲府に帰任し、信玄の西上作戦の準備に従事したようだ。
 元亀三年(1572)十月、信玄は軍団を三つに分けて西上作戦を開始する。高坂弾正は信玄直属の本隊に加わって出陣した。武田軍は二俣城を落し、十二月、織田・徳川連合軍と遠江国三方ヶ原で戦い連合軍に壊滅的打撃を与え、家康が逃げ込んだ浜松城を攻略しようとした。このとき、諸将は浜松城強攻論をとなえたが、弾正は軍を京都に進めることを主張し、信玄はこれに従い浜松城攻撃を回避し軍を刑部に進めた。ところで、西上作戦の途上で信玄は宿病を再発し、その容態は楽観を許さないものであった。浜松城攻撃に際しての弾正の進言は、かつての寵童として、誰よりも信玄の病気の重さを知っていた結果であったともいわれている。
 天正元年(1573)になると信玄の病はさらに重くなり、ついに信玄は上洛を断念、武田軍は信玄を寝駕篭に乗せて甲斐へと帰陣の途についた。そして四月、伊那駒場において信玄は五十五歳の生涯を閉じた。このとき弾正は信玄に殉じようとしたが、一条信龍らに制せられて勝頼を主君と仰いで喪に服した。
………
写真:海津城址(2001_11/24_改修工事中のころ)


武田氏の滅亡と弾正の死

 信玄の死後は、勝頼に疎まれ北方の海津城へ追いやられた。長篠の合戦では、上杉勢に備え北信濃を固めていたため戦闘には参加しなかった。長篠における武田軍の敗戦を知った弾正は、信州配備の兵を集めて出撃の命令を下した。このとき、弾正のもとに集まった兵は八千であったと伝える。しかし、弾正は駒場で敗残の勝頼を迎える形となり、長篠への進撃は差し止められてしまった。
 長篠から落ちのびてきた武田軍の将兵は、勝頼をはじめ武具・着衣ともにぼろぼろで、まことに惨めな姿であった。これを見た弾正は、信玄他界のおりに隠し備えていた武田軍の武具・着衣などを取り出して、勝頼らの身だしなみを整えて甲府へ帰したという。弾正は、敗れたりとはいえ、中世の武将の心意気として、衣服を整え帰陣すべし、という作法を示したのであった。天正六年(1578)高坂弾正は武田氏の滅亡を見ることなく、甲府において死去した。武田氏衰運を予期しながらの無念な死であったが、武田滅亡に遭遇することのなかった幸福な死であったといえよう。
 高坂弾正は、「ニゲ弾正」と呼ばれたという。これは女から逃げ回るほどの美男子であったことへの冷やかしではなく、川中島の合戦や長篠の戦いなど武田軍が大きな犠牲を払うような合戦に、幸か不幸か部署の違いから参加しなかった。このため、同僚・先輩から「運のいい奴」と嫉みを含めて言われたものであった。
 晩年の弾正は、主君信玄と同様に胸を患っていたという。そして、前線への出陣もなく、もっぱら武田氏の興亡の記録をしたためていたようだ。そのことは、『甲陽軍鑑』のところどころに「高坂弾正書之」と記載されていることからうかがわれる。のちの『甲陽軍鑑』のもととなる記録を高坂弾正が記述していたことはまず間違いないが、記憶をもとにして書いたようで、合戦の場所、年月日、人名などが自己流で、史実とかみ合わない点が多いのが残念なものである。しかし、弾正が記録していたことによって、信玄をはじめ多くの武田氏の武将たちの生きざまがいまに語り継がれたのである。



■参考略系図


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