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三枝氏
丸に三階松
(甲斐在庁官人三枝氏後裔)


 三枝氏は甲斐源氏が発祥する遥か以前に、大和朝廷から甲斐に派遣された国守級の在庁官人の出身であることは疑いない。『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」の名が見え、『続日本後記』の承和十一年(844)の項にも三枝直平麻呂の名が見えている。

三枝氏前史

 このように三枝氏は甲斐の古豪族で、律令時代には郡司をつとめ、甲斐の産物を大和朝廷に献納していたものと思われる。昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。それには、大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、見晴らしのいい柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。ちなみに、大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である。
 応保二年(1162)、甲斐守に任ぜられた藤原忠重は遥任国守として中原清弘を甲斐へ赴任させた。とはいえ、実務を預かったのは在庁官人の三枝守政であった。そのころ熊野信仰が流行しており、諸国で社領の創建や拡張が盛んに行われていた。この事態に藤原政権は律令に背くものとして弾圧を加えた。甲斐国でも熊野信仰は盛んで、熊野社領八代荘は門前市をなすほどに信仰者が集まり、小国家と見まがうほどの権勢を誇っていた。中原清弘.三枝守政らは、軍兵を率いて八代荘を急襲、社殿を破壊し、責任者に停廃を命じた。さらに、同社の蔵米、貴金属などを没収、荘内の要人を逮捕し、教祖をしばりあげて口を八つ裂きにするなどの暴挙を働いた。
 熊野側はこれを朝廷に訴えたが、忠重はこれをきっぱりとはねつけた。しかし、検非違使庁が動きだし、罪状が明らかにされ、忠重は流罪、清弘・守政ら首謀者は禁固刑となり、熊野側が勝利した。この事件をきっかけに三枝氏は没落の一途をたどり、代わって源氏が甲斐守に任ぜられて甲斐源氏が勃興することになるのである。
 その後の三枝氏は甲斐源氏の属将とり、三枝守継は於曾氏を名乗り、その分流も能呂(野呂)・石原・立河・石坂・窪田・沓間などの姓を名乗って、三枝一族は甲斐国内に隠然たる勢力を保持した。しかし、戦国時代にいたるまでの三枝氏の動向は必ずしも詳らかではないが、甲斐守護武田氏に属しながら代を重ねたものと想像される。やがて、戦国時代になると甲斐は武田信虎によって統一されたが、そのころ三枝宗家が断絶したようだ。信虎は三枝氏の断絶を惜しんで、一族の石原守種の二男石原守綱に名跡を継がせた。その子虎吉が武田二十四将の一人に数えられる勘解由守友の父である。

武田氏麾下として活躍

 守友は初名を宗四郎といい信玄の奥近習六人の一人として奉仕した。弘治元年(1555)、信州木曾の福島城攻撃に参加して使い番として活躍、同三年の川中島の合戦にも参加している。このころ、守友は昌貞を名乗っていたが、永禄七年(1564)三月、五十六騎を与えられ足軽大将となり名を勘解由守友に改めた。
 信玄は関東管領職を譲られた上杉謙信の勢力を関東から駆逐するため、会津の葦名盛氏、相模の北条氏政らと同盟を結んで、永禄七年三月、甲斐・相模・信濃・陸奥の連合軍で上州吾妻郡へ攻め込んだ。守友は足軽大将として信玄の西上野攻略作戦に従軍し、吾妻郡の長野原に進出、松山城など西上野一帯の制覇に活躍した。翌年、信玄は西上野で武田軍に頑強に抵抗する箕輪城攻めを開始し、三枝隊は倉賀野城攻略を命じられ、激戦の末、倉賀野城を攻略する功をたて、戦後に百貫文の恩賞を与えられている。翌年の箕輪城の包囲作戦にも参加し、総攻撃には先陣をきって城内に攻め込んだ。
 元亀元年(1570)、勝頼に従って駿州花沢の城攻めに加わった。立て篭るのは、今川方の猛将として知られる小原肥前守で、守りが固く武田方は攻めあぐねた。これを見て、三枝は同僚の曽根昌世・真田昌幸らと作戦を練って、三隊の中から選りすぐりの兵を繰り出し城門を攻めたてた。この攻撃に耐えきれずに打って出てくる城兵相手に、三枝が一番槍、曽根と真田が二番槍をつけて落城に追い込んだ。信玄も合戦の際、俺の両眼の働きをするのは、一に三枝、二に真田、三に曽根であるといって、敵情視察、陣取りには三人を交互に組ませて先行させた。
 元亀二年には、深沢城攻撃、高天神城攻撃に参加し、さらに、三河の足助城攻略、三河の野田城・吉田城の攻略にも参加し功をあげている。あけて元亀三年(1572)十月、信玄は上洛作戦を開始した。そして十二月、三方ケ原で徳川家康の軍と戦い家康軍を一蹴したが、この戦いでも三枝守友は勇戦し、守友の奮戦ぶりを見た山県昌景はのちに「若獅子とは守友のことをいう」と誉め讃えている。しかし、この上洛作戦の途中で信玄は病を再発し結局武田軍は甲斐に兵を引き帰すことになり、信玄は信州駒場で病没した。

守友の死と武田氏滅亡

 信玄の死後、勝頼が武田氏を継いだ。天正三年(1575)、勝頼は織田・徳川連合軍と戦うため設楽ケ原に至り、決戦の二日前、全軍一万二千を本陣・右翼・中央・左翼・長篠城包囲軍・鳶ケ巣山に分けて連合軍を待ち構えた。
 三枝守友は鳶ケ巣山隊の大将武田信実を補佐する副将としてその任にあたった。鳶ケ巣山からは織田・徳川連合軍の動きが手にとるように分かり、合戦における要地であった。一方、連合軍側としては鳶ケ巣山に陣取った武田軍を叩くことは不可欠のことであり、徳川家康の重臣酒井忠次を大将とした攻略軍を発した。酒井隊はおりからの雨をついて出陣し、鳶ケ巣山を急襲した。武田信実・三枝守友らは決戦に備えて仮眠をとっていたとこころを酒井隊の奇襲を受け、その頽勢はおおうべくもなく、守友は大将の信実をかばいながら力の限り戦ったが、ついに討死した。享年三十七歳。この戦いで、大将信実をはじめ武田の将兵一千はことごとく討死した。
 鳶ケ巣山の勝利は、そのまま設楽ケ原の決戦の勝敗につながり、武田軍は連合軍の前に無惨な敗北を喫し、総帥勝頼は命からがら甲斐国へ逃げ帰った。鳶ケ巣山における守友.武田信実らの死はそのまま武田氏滅亡の序曲となったのである。武田氏が滅んだのはそれから七年後の天正十年(1582)のことであった。  いまも、甲斐(山梨県)には三枝姓を名乗る家が多く、三枝氏の血脈は現代に受け継がれたのである。一方、三枝氏の一族である石原氏は、武田滅亡後、徳川家康に仕え徳川旗本として続いた。


■参考略系図
 


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