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多田氏
獅子に牡丹/丸に万字
(清和源氏頼光流 [満季流とも] )


 多田氏は清和源氏源満仲の後裔とされ、満仲は摂津守に任じられ、のちに摂津国河辺郡多田の地に居住して多田を家号にしたと伝える。満仲は、天禄元年(970)に多田院を創立し、長徳三年(997)に卒し多田院に葬られた。
 このような多田氏が甲斐国に関係を持つようになったのは、源頼光の孫多田左衛門尉頼綱の後裔にあたるという淡路守満頼が甲斐国に移って、武田信虎に召し抱えられたのが始まりとされる。一説に満頼は美濃国の出身ともいわれ、信虎・信玄に仕えて足軽大将となった。合戦に臨むこと二十九度、身に二十七の創を負い、感状を受けること二十九度であったといわれているから、合戦に出るたびに傷を負い感状をもらっていたのである。

豪傑、淡路守満頼

 満頼(三八、昌澄とも)は板垣信方隊に属して夜襲を得意としていた。『甲陽軍鑑』に小荒間の合戦の話が記されている。天文九年(1540)二月、信州村上義清の侍大将清野某が三千五百の軍勢を率いて甲州小荒間まで押し寄せた。注進を受けた信玄(当時は晴信)はすぐさま甲府を発し小荒間に向かった。ところが村上軍は、地理不案内と残雪のために進みあぐねていた。前線を偵察してこれを察知した多田三八は、夜襲作戦を信玄に言上した。信玄は三八の意見に従い、戌の刻を期して夜戦を決行、村上軍を敗走に追い込み首級百七十二をあげる大勝利をおさめ子の刻(零時)に勝鬨をあげた。
 天文十七年二月、信玄は上田原で村上義清と戦い、板垣信方・甘利虎泰ら歴戦の武将を失う敗戦を喫した。板垣信方が戦死したことで満頼は板垣隊を離れ、甘利の遺児の藤蔵につくことを命じられた。
 上田原の敗戦の影響から、木曽義康と小笠原長時らの反武田的な動き活発化し、信玄はその押えとして下諏訪に甘利藤蔵を、上諏訪には板垣の遺児弥二郎を配置した。案の如く、小笠原勢が動きだし、三八は藤蔵を先頭に夜撃をかけ、首級九十三をあげるという大手柄を立てた。このとき三八は信方の旧恩に報いるため、板垣弥二郎にも出陣をうながしたが、弥二郎は事態を楽観して腰を上げなかった。三八は弥二郎にも手柄を立てさせてやろうと思っていただけに失望を禁じえず、板垣家の先が案じられると暗い顔をしたという。
 三八の豪勇振りを伝える話のひとつに、信州虚空蔵山の鬼退治がある。信玄が上田方面の砦を次々と落した際、虚空蔵山の守りを三八に命じた。すると、夜な夜な「火車鬼」が出現して兵を悩まし士気が疎漏するという事態に至った。ある夜、三八が見張っていると火車鬼が現われた。三八が素早く斬りつけると、悲鳴をあげて闇に消えそれ以来火車鬼は現われなくなった。この火車鬼のことは、乱世に便乗して火付け強盗を働く野盗の頭目がそのように呼ばれていたものを多田三八が討ち取った。この武勇談に尾ひれがついて、火車鬼なる妖怪を退治したという伝説ができあがったと思われる。いずれにしろ、この武勇談によって三八の勇名は一躍天下に轟き渡った。

甲斐多田氏の最期

 淡路守(三八)が足軽大将として最後を飾ったのは、永禄四年(1561)の川中島合戦で、それから二年後の永禄六年に病死している。そのあとは、嫡男の久蔵が家督を継いだ。久蔵も父に劣らぬ剛の者であった。
 天正三年(1575)五月、武田勝頼率いる武田の騎馬軍団は織田・徳川連合軍と三河国長篠で戦い壊滅的敗北を喫した。この戦いにおいて、真っ裸で緋ドンスの下帯一本で生け捕られた武田武士がいた。一目見た信長があの者は只者ならじと見て、名を名乗らせよと命じた。すると、赤裸の武者は傲然と胸を張り、「美濃国の住人、多田久蔵なり」と答えた。信長はわしに仕えるがよいと言って、長谷藤五郎に命じて縄を解かせた。すると久蔵は槍を振るって暴れ出すので、やむなく長谷は斬って捨てたという。
 久蔵が長篠合戦で戦死したのちの多田氏は弟の新蔵が継いで勝頼に仕え、足軽大将として各地を転戦した。しかし、戦況は武田氏に不利で、ついに天正十年(1582)、織田軍の甲斐侵攻により天目山に落ちのびた勝頼・信勝らを最後まで守って多田新蔵は武田氏に殉じた。
 『寛政重修諸家譜』には、久蔵・新蔵の兄弟という正吉を祖とする多田氏が収録されている。武田氏滅亡後に正吉が家康に従い、以後、徳川旗本に列したと伝えている。


■参考略系図

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