武田氏重臣の家柄で、特に美濃守信房の名がよく知られている。一説に、源頼光の三代の孫仲政がはじめて馬場を名乗り、甲斐の馬場氏もこの末裔というが初期のころは不明である。 『寛政重修諸家譜』には「嚢祖下野守仲政はじめて馬場と号す。其後裔甲斐国教来石にうつり住し、地名をもって家号とし、代々武田家につかへ、駿河守信明がとき武田信重が婿となり、馬場にあらたむ。その男遠江守信保、その男美濃守信房にいたり、武田の一族につらなり、花菱の紋をうくといふ」とある。もっとも、これには異説もあって『甲斐国志』では「木曽義仲の後裔讃岐守家教の男讃岐守家村、その三男常陸介家景、始めて馬場を以って氏となす。本州の馬場氏も蓋し是と同祖なりしにや」としている。 なお、信保の子信房(信春とも)は、はじめ教来石民部景政と称していたが、武田家の老臣馬場虎貞が、武田信虎に諌言して殺されたあと、馬場家の名跡を継いだともいわれている。名築城家としても知られ、三河国古宮城・遠江国諏訪原城などは信房の縄張りといわれている。 美濃守信春の活躍 永禄四年(1561)九月の川中島合戦では、妻女山攻撃の別働隊総指揮の高坂昌信の副将をつとめ、四年後の永禄八年、信春は幾多の重なる軍功によって”名誉ある美濃守”に任じられた。美濃守を名乗ったのは武田家中には原虎胤がいただけだったが、その虎胤が前年に世を去っていたので、信玄は「鬼美濃の武功にあやかれ」と信春に美濃守を許したのである。 元亀三年(1572)、信玄は京を目ざして西上作戦を開始した。約四万の武田軍は二手に分かれて天竜川を南下して、徳川方の中根・青木らが守る二俣城に向った。二俣城は天龍川に面した崖の上に築かれた天然の要害で、信春は山県昌景とともに夜襲をかけたが、城の守りは難く武田軍は一歩も城に入り込めなかった。力攻めにすれば甚大な被害を出すことになると考えた信春は、天龍川から城へ水を汲み上げる取水口を探りあて、上流から筏を流す策を講じて取水口の破壊に成功した。水の手を止められた籠城軍は、万事窮した末に城を開いて武田軍に降服した。 二俣城を落した武田軍はさらに西に進み、遠江の三方ケ原で徳川・織田連合軍と歴史に残る一大決戦を行った。いわゆる「三方ケ原の合戦」で、信春は勝頼とその親衛隊とともに第二陣をうけたまわり、乱戦のすえに敗走を始めた家康とそれを守る鳥居元忠らの旗本衆を追撃したが、あと一歩のところで浜松城に逃げ込まれた。三方ケ原の合戦に大勝利を収めた武田軍は刑部宿で年を越し、三河の野田城を攻撃した。 ところが、このころ信玄は重い病によって床にあり、ついに信玄は上洛をあきらめて兵を甲斐に帰すことに決した。そして、甲斐に帰国する途中の信州駒場の陣において死去した。このとき、信春は五十代後半の老武将で、髪にも白いものが目立っていた。信玄のあとは勝頼が継いだが、信春ら信玄子飼いの武将たちの活躍の場も限られるようになっていったようだ。 信春の戦死と馬場氏のその後 信春は、信虎・信玄・勝頼三代に仕え、信玄全盛期のころにその麾下にあって知謀とくにすぐれた有力武将を指して、後世の人は「武田の四名臣」といって賞賛した。そのなかでも「智勇つねに諸将に冠たり」(甲斐国史)とあるように、一国一城の大守となっても人後に落ちぬ真の名将と称されたのが馬場美濃守信春であった。信虎の代にすでに南信州・諏訪攻め、北信濃・佐久方面へ出陣して数々の功名があり、信玄の代には全幅の信頼を得て侍大将となり、勝頼の時代は譜代家老衆の筆頭格となった。 天正三年(1575)、勝頼は設楽原(しだらがはら)の決戦を前に軍議を開いた。その席で信春は「一戦無用」と反対したが勝頼は聞かず、武田軍は三千挺の鉄砲の前に惨敗。信春も壮烈な討死をとげた。 家督は弟信頼が継いだが、甲斐を去って和泉国淡輪に蟄居したという。その孫信成は武田滅亡後、他の武田衆とともに家康に属し、以後、小牧・長久手の戦いなどにも出陣して戦功をあげている。子孫は幕臣となった。いまもなお、信房の子孫と称する家が各地にちらばっている。 ■参考略系図 |