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甲斐原氏
十曜/割菱
(桓武平氏千葉氏族)


 下総原氏の一族、原胤継は山辺郡小西郷に所領を持ち、原氏の一族として活躍している。永正14(1517)年十月の、上総武田氏・足利義明の連合軍による小弓城攻撃には、宗家の原胤隆とともに小弓城に籠り、総大将として義明軍を迎え撃ったが、敗れて根木内城に退却。その子と思われる「原能登守友胤」は甲斐に逃れ、武田信昌に仕え、足軽大将に召し抱えられた。
 虎胤は原友胤の子。美濃守を称した。武田信玄配下の名将「甲陽の五名臣」として横田高松(備中守)、多田摂津守満頼、小幡山城守虎盛、山本勘助晴幸とならび称された。
 永正14年10月の小弓落城の時、父の原能登守友胤とともに、甲斐に逃れて武田信虎に仕え、信虎から偏諱を受けて「虎胤」を称した。『甲斐国志』によると、友胤は武田家足軽大将の身分で召し抱えられ、虎胤もその麾下として活躍したと記されている。
 虎胤は父の跡を継いで足軽大将となり、天文十年(1541)、武田晴信が当主となるとその家中で活躍。生涯で38回の合戦に参戦し、全身50カ所にも及ぶ傷を受けた豪傑として、近隣に名を轟かせ、官途名の美濃守から「鬼美濃」と呼ばれるた。
 しかし、虎胤は猛将であるだけでなく、情にもあつい武将として知られ、合戦場で傷つき倒れていた敵将を見つけると、自ら肩をかして敵陣まで送り届け、再び戦場でお目にかかろうといった話は有名だ。
 天文二十年(1551)10月、信濃の戦国大名、村上義清・小笠原長時と武田氏との合戦における前哨戦として、彼らの重要拠点であった小笠原長時の一族、平瀬八左衛門の居城・平瀬城を攻め落とし、平瀬城代に任じられている。深志城・平瀬城は信州の中心にある城であり、信州覇権の足場を築いたことになる。
 しかし、天文二十二(1553)年、日蓮宗と浄土宗の論争があったとき、「甲州法度次第」に背いて法論に加わったことを咎められて平瀬城代を解かれて追放処分を受けた。こうして虎胤は甲斐を離れ、北条氏康のもとに身を寄せることとなった。氏康はじめ、北条氏の家中は虎胤の勇名を聞き及んでいたため、この訪問を心から喜んで「古の渡邊綱に勝れり」と彼を丁重に扱ったという。その後、氏康は虎胤の帰還を許し、彼を甲斐に送り届けている。これは天文二十三年(1554)2月、武田信玄の娘と北条氏政の婚儀が調った際に、虎胤は信玄からの許しを得た結果と思われる。
 その後、再び信州攻略の陣頭に立って活躍したが、割ヶ岳城を攻めている際に負傷し、永禄川中島の戦いでは信玄から養生を命じられて出陣することなく、甲斐国に留まっていたが、永禄七年(1564)に64歳で病死た。
 虎胤が病死した翌年の永禄八年(1565)、信玄は子飼いの名将・馬場信房に対して、虎胤の武勇にあやかるために「美濃守」を称することを許し、偏諱を与えて「馬場美濃守信春」を称させている。

■千葉一族
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■参考略系図
    


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