赤罫 甲斐武田氏



信玄の弟たち
武田左馬助信繁/ 武田逍遥軒信廉/ 一条右衛門大夫信龍





武田左馬助信繁


 信玄のすぐ下の弟、四つ違いだった。典厩とも称した。幼い頃から利発で、父信虎の気侭な愛情は信玄よりも信繁の方にかたよっていた。何かにつけ、信虎は信繁を褒め信玄を貶しめた。しかし、信繁は決して我が儘に育たなかった。兄のまえでは素直な弟であり、父親の盲目的な愛情を避ける風情であったという。
 天文十年、信玄は父の信虎を駿河に追いやった。クーデターは成功し、信玄が武田の当主となったのである。父信虎の寵愛を一身に受けた信繁の処遇がどうなるか。大方の家臣たちは暗い予想に沈んだ。戦国の世であってみれば、信繁が信玄から何らかの報復を受けたとしても決して不思議ではない。しかし、信玄は弟に対して、「仕方のないことだった」と頭を下げたのである。父を駿河に追放したことを信繁に詫びたのである。
 信繁は兄信玄とともに成長した。知略の勇将は、兄の良き理解者であり右腕であった。
 永禄四年(1561)九月十日の、史上名高い川中島第四回の合戦が起こった。この合戦は武田方の敗け戦であった。味方の陣営の崩れを見てとった信繁は、家臣の春日源之丞を呼び寄せ自らの母衣をはずし、鬢髪を添えて一子信豊へ手渡してくれるよう頼んだ。そして、弟の信廉にはよい弟であったと伝えてくれるように伝え、三尺の大太刀を高々と天空に突き上げて敵中へ姿を消した。三十七歳、壮烈な討死であった。



武田逍遥軒信廉


 長兄の信玄とは七つ違いの弟であった。信廉は、歌道を冷泉為知や法泉寺湖月、漢詩を快川紹喜、恵林寺の惟高、上条法城寺の策彦等々、名僧知識の教えを受けた。さらに、彫刻を康清、絵を長谷川等伯に学ぶなど多才であった。そして、兄信玄の文芸歌道の芸術面においての影武者をつとめた。
 彼の手になるといわれる武田信玄画像や信虎画像、信虎夫人で母でもある大井氏の画像など、今もなお高野山や大泉寺に残っている。また、朝廷の使者として甲府に下向し、京に帰りついたときの四辻季遠の報告に「まこと、甲斐の地は雅趣豊に候」とある。雅趣が豊かというのは、蹴鞠や能楽、連歌等が円滑に上手に催されたというだけではない。信廉をはじめとする接待者の人情の濃やかさが、京の公家の旅心をしっとりと打ったということだ。
 甲斐の武田信玄はなかなかの風流人であるという殿上人の専らの評判は、信廉にとって何にも優る喜びでもあったようだ。
 兄信玄が卒したとき、信廉は四十六歳であった。彼の滋味を解しない甥の勝頼は、武将としての力を要求した。そして、長篠の合戦に狩り出されるのである。結果は敗戦、その時から七年後の天正十年、武田氏は滅亡の時を迎える。逍遥軒は農民にかくまわれている所を発見され、首をうたれた。飄々乎とした人生を送った武田家の三男坊は、甥の勝頼のもとで、思いもしなかった武将にまつりあげられ、予想もしなかった敗軍の将として身首を異にしてしまったのであった。



一条右衛門大夫信龍


 信玄の異母弟。信虎の子女十七人のうち、十六番目の八男として生まれた。信繁の亡きあと、武勇の面で信玄がもっとも頼りにしていた弟であった。信玄は遺言で、勝頼の後見人として武田家を盛り立てるよう頼んでいる。
 信龍は、幼いころ一条家に迎えられ、養子となった。一条家は、甲斐武田の初代信義の次男・次郎忠頼を祖とする。その十五代を継いだのだった。
 彼は武芸、兵法、禅学を修めた文武兼備の名将だった。山県昌景の言葉を借りると「伊達者にして花麗を好む性質なり」となる。武骨さからは縁遠い、知的な優しさを持つ中世武士が想像される。おそらく信廉について風流の道を学んだのであろう。しかし、それだけの男でもなかった。
 武田氏の滅亡に際して、彼は家康と穴山梅雪からの降伏に対して頑として受け付けず、不利と知りながらも、自分が後見している勝頼に従った。天正十年、約一万の三河軍に対し、三百余しかない兵で立ち向かった。半日の戦いで城は落ち、子の信就とともに縛されて家康と梅雪のまえにすえられた。「殺すのは惜しい」と梅雪はいく度も家康へ耳うちした。
 しかし、信龍は「即刻、首を刎ねられい!」と。そして、富士川畔の河原に引き出され、子・信就とともに斬首された。享年四十三歳。



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