武田氏は、信虎より四代前の信重のとき、衰退の極みにあり、甲斐国内は逸見信直が支配していた。信重の弟信長は甲斐回復のために戦い、この信長に工藤氏は仕えていた。その後、信重が甲斐守護となったとき、信長の家臣であった工藤一族を甲斐へ連れ帰り武田家の家臣としたのが甲斐工藤氏の始まりである。 その四代目が虎豊で、天文六年(1537)信虎の駿河出兵を諌め信虎に成敗されてしまった。この虎豊の二男に生まれたのが祐長でのちに内藤昌豊となる。虎豊の諌死後、工藤一族は国外追放され、海に近い漁村で世を忍んでいたといわれる。 その後、信虎が嫡子晴信(のちの信玄)によって追放され、晴信が武田氏の当主となった。信玄は、虎豊の子源左衛門祐長が関東を流浪しているのを知り、工藤の志をあわれみ召し返して工藤氏の旧領地を返還した。祐長は亡父の名乗りの一字をとって工藤下総守昌豊と改め、武田騎馬軍団の一員として戦国風雲のなかを疾駆することになる。 もともと昌豊は、戦闘部隊を率いて槍先の功名に狂奔するといった剛将ではなかった。どちらかといえば、戦国時代には珍しい思慮ぶかい温厚な人柄であったという。、 昌豊の活躍 そんな昌豊の器量に目をつけたのが信玄である。信玄は戦国希代の戦争上手というばかりでなく、民政に長じ、人間管理の妙手でもあった。こような信玄だけに、戦功者だが、智略をもって戦を進める昌豊の資質に着目したのであろう。 永禄四年(1561)、前後数回戦われた川中島合戦のなかでもっとも激戦となった第四回川中島合戦に参加した。昌豊は妻女山攻撃隊に加えられ、一足遅れて八幡原の激戦に参加し、越軍を相手に奮戦した。この年から信玄は、関東進撃を開始し、昌豊は副将格として武田軍の指揮をとった。永禄五年、国峰・平井の二城を落したが味方に死傷者なし、という完全勝利であった。その報告を聞いた信玄は、昌豊を激賞したと伝える。 永禄九年(1566)箕輪城攻略に参加して山県昌景とともに先陣を勤め、一夜にして城を落す活躍を示した。このときの昌豊ら工藤隊の活躍は抜群で、信玄は恩賞として武田譜代の重臣の姓「内藤」の名跡を継ぐことを申し渡した。これは、昌豊が重臣に抜擢されたことをも意味した。こうして、昌豊は内藤昌豊となり、箕輪城代として西上野七郡の郡代に任じられた。まさに、異例の大出世であった。 抜擢といえば、昌豊と同じ宿将の馬場信春や山県昌景、高坂弾正ら信玄の「四臣」はいずれも信玄がその才能をみとめて登用した男たちであった。信玄は軍議に四人を呼び、まず、「馬場美濃守は戦いの方法を進言する。山県昌景は出陣の時期を進言する。内藤修理はどちらへ出陣すべきかをお指図申し上げる。高坂弾正は敵国の内部に深く働きかける交渉と、戦いを延期した方がよいと判断した場合、これを進言する」と、『甲陽軍鑑』にある。信玄は、それぞれの意見を聞き、もっとも勝算の大きい方法を採用したという。 昌豊は戦功者だが、智略をもって戦をした。信州、伊那に籠って信玄に反抗する忍者二千を奇策をもって討滅したり、高天神の戦いでは撃ちすくめられて苦戦している味方を救い、勢いにのって押し出してくる小笠原勢を奇略をもって釘付けにしたり、またあるときは、他の部将たちが尻ごみする小荷駄奉行をひきうけ、二万の大軍がひしめいている三増峠の敵中突破をやってのけたりしている。 昌豊は,信玄の西上作戦にも従軍し、三方が原の合戦では予備隊として背後からの敵に備えた。しかし、信玄の病は重くなり、雄図むなしく信玄は信州駒場で死を迎えた。以後、内藤昌豊の名は、当時の史料に見えなくなってしまう。 長篠の合戦 信玄の死後、勝頼が継ぎ、天正三年(1575)5月、長篠の戦が起こる。十九日、長篠設楽原の医王寺の本陣で最後の軍評定がひらかれた。昌豊はじめ、山県や馬場、小山田、原といった部将たちは戦の不利を説き、「敵を国内に誘いこんで討て」という信玄の遺訓をあげ、この場は撤退して、追撃してくる敵を信州伊那谷で挟劇する策を述べたが、勝頼は耳を傾けようとはしなかった。 そして、二十一日の夜明け、勝頼は全軍に進撃の号令を下した。この瞬間から武田家の滅亡は始まったのである。武田の本陣にいた昌豊は、白地に胴赤の旗をひるがえし、一千の軍兵とともにまっしぐらに進撃した。こうして、天地も晦冥するばかりのなかを突撃すること三度。激闘二刻、山県昌景は乱闘のなかで、采配をくわえたまま絶命し、続いて原昌胤、真田信綱、高坂昌澄らの部将たちが凄絶な死をとげる。馬場美濃守は勝世頼に退却をすすめ、その敗走を見届けると、怒涛のように押し寄せてくる織田軍のなかに突入して戦死した。昌豊も退却する勝頼を見送り、織田・徳川軍の銃火の中へ飛び込み戦死した。 かくして、昌豊は戦死し、そのあとは系図によれば保科氏から入った昌月が継ぎ、子孫は保科氏(のちに会津松平氏)に仕えたと伝えられている。 ■参考略系図 |