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横田氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏後裔)


 近江国甲賀郡横田より起こった。家譜によれば「佐々木三郎秀義の末孫 次郎兵衛尉義綱、浅井伊予守吉高に属し戦功により、横田川和泉村のほとりに、采地を受け、家号を横田に改む」とある。また、中興系図には「横田・宇多、紋、釘貫」と出ている。

横田高松、武田氏に仕える

 武田信虎は甲斐の統一のために、諸国から人材を募った。これに応じて、備中守高松は近江から一族郎党を連れ甲斐に入部、これが横田氏と武田氏の結びついた始めであった。以後、備中守高松は信虎・信玄二代に仕えて活躍した。高松はよほどの才覚の持ち主だったようで、信虎に採用されると、即座に騎馬三十、足軽百人を与えられ足軽大将の地位を与えられた。  横田備中の初めての出陣は、信虎と武田一族との戦いで信虎の国内統一に功を上げた。ついで、大永元年(1521)九月、駿河の今川氏親は福島正成を将とし一万五千の兵を与えて甲斐に侵攻した。福島は大井氏を蹴散らし、甲斐国内で暴れ回った。これを迎え撃った。武田軍は三千足らずの騎馬軍団であったが、今川勢の撃退に成功した。この戦いで横田備中は先陣を切り、決死隊にも参加するなど大活躍をした。戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。  信虎は歴戦の麾下の将二百二十騎の中から七十五人を選りすぐり、さらに三十三人にしぼって軍団の強化をはかった。いずれも一騎当千の荒武者揃いであったが戦死あり病死ありで、信玄の代まで生き残ったのは、横田のほかに多田・小畠山城・鬼美濃(原虎胤)の四人しかいなかった。信玄にとって高松は信虎ゆずりの得難い武将のひとりであった。天文十年(1541)、信虎が国外に追放されたあとは、晴信に仕えて情報局長的な役割を勤め、元老職にあった。  天文十九年((1550))九月、信玄は北信の猛将村上義清が拠る戸石城攻略のために出兵した。武田軍の苦戦を聞いた高松は老骨をおして出陣し村上軍に突入し戦死した。武田軍は義清によって散々に破られ千人余の将兵が戦死し晴信は命からがら窮地を脱した。

横田直胤の活躍

 跡を継いだのは鬼美濃の子十郎兵衛直胤である。鬼美濃の子だけあって、十六歳で初陣して二十七年の間、諸合戦に出て手柄をたて、感状十九をもらっている。直胤は早くから鉄砲の威力に目を付け、みっちり修行を重ねて腕を磨いた。  永禄九年((1566))七月、謙信が一万三千の兵を率いて上州和田城を囲んだ。甲州から援軍として直胤が駆けつけ、籠城態勢に入り城内の総指揮に当った。謙信としてはひと押しに攻め取るつもりでいたところ、本陣めがけて鉄砲玉が飛んでくる。そのつど、必ず誰かが撃ち殺される。偵察させると康景が櫓に上り、一人で狙い撃ちしていることがわかった。たった一挺の鉄砲のために攻めあぐねる結果となったばかりか、日を重ねるごとに麾下の侍大将がたおされ、結局、和田攻めをあきらめ、包囲を解いて越後へ引き上げていった。これを知り康景を誉め賛えぬ者はなかったが、康景は手柄顔ひとつ見せず、信玄もまた誉め言葉ひとつ与えなかった。誉められて喜ぶ康景でないことを信玄は知り抜いていたからである。天正三年の長篠の合戦では足軽大将の本領を発揮して奮戦、討死した。  その子甚五郎もまた、祖父・父に劣らぬ猛将であった。天正八年、三州高天神城に立て篭っていた甚五郎は、勝頼から交替せよと命じられたが、踏みとどまって徳川家康軍を食い止めると返事を出して戻らなかった、のち脱出するはめとなり甲州に戻っている。武田氏滅亡後は家康に仕え、横田甚右衛門尹松と名乗った。
 後代の旗本横田家は、四目結のほかに釘抜、矢羽車も用いた。


■参考略系図


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