島津氏と戦った武将
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阿蘇氏
阿蘇惟憲の子惟長は、弟惟豊に大宮司職を譲って、自らは守護菊池氏の跡を襲封し、菊池武経となった。しかし、武経の子惟前は、大宮司職を望んで惟豊を益城郡堅志田城に襲い追放した。惟豊は、甲斐宗運を頼って阿蘇・益城郡の兵をもって大宮司職を回復した。
惟豊は豊後大友氏と盟友関係にあったため島津氏の肥後征討の目標となり、惟豊の死後は甲斐宗運が、幼主惟光を補佐してわずかに阿蘇家の命脈を維持した。
甲斐氏
甲斐宗運は、永正十四年(1517)前阿蘇大宮司惟豊を、矢部浜の館に復させ、それにより地位を確立。天文期には阿蘇氏老臣として領国経営に当たったが、同十年阿蘇大宮司に背いた御船房行を御船城に攻め、以後同城の城主となる。
永禄期に、追放されて相良義陽のもとに仮寓していた阿蘇惟前を相良氏との交渉により帰国させ、政治的な名声は領国間に広まった。
蒲生氏
中世には、脇元、鞍懸・永山・開佐良・沙汰浦・北村・西俣・二階などの諸氏が分立した。南北朝期には最初北朝方についたが、のち南朝方に属した。
戦国時代は宣清の孫茂清、その子範清のころにあたり、範清は大隅国西部に勢力を張った。しかし、天文二十四年から島津貴久の蒲生攻略が始まり、ついに弘治三年、蒲生城主範清は城門の鍵を島津氏に渡して城に火を放ち、薩摩国祁答院の松尾城に退去した。のち、薩摩国薩摩郡隈之城青木門を知行した。
肝付氏
大隅の肝付宗家は、薩摩北部の菱刈氏、日向真幸院の北原氏とともに島津氏の対抗勢力であったが、永禄期以来、兼続は豊州家の島津忠親と交戦して、自ら勢力を減退させていった。
元亀二年、肝付氏は禰寝重長とともに鹿児島を襲い、攻防を繰り返した。しかし、兼続と嫡子良兼が死去したのち、十六代兼亮は新納忠元の勧告を受けて島津氏に帰順した。その後、肝付宗家は内訌により絶家となってしまった。
渋谷氏一族
渋谷光重は、宝治元年の合戦の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得て、長男重直を本領の相模国にとどめ、それぞれの地に兄弟を下向させた。かれらは、それぞれ地名を名字として守護島津氏と拮抗する薩摩の雄族となった。
戦国時代に至るまで渋谷五家としての活動が確認できる。なかでも、入来院氏は清色城を本拠として、国衆として成長し一族のなかでは最有力な存在であった。【家紋は渋谷一族の代表紋を掲載】
●東郷氏
●祁答院氏
●入来院氏
禰寝氏
禰寝清有は北俣院・鹿屋院の地頭も兼ね、さらに弟清武から佐多西方の領地も譲られ、その子久清は、今川了俊から禰寝北俣四ケ村を与えられた。十六代重長は、天文末以来の大隅合戦に、肝付氏方として島津貴久・義久軍と連戦、また島津氏傘下の城主と直接平和工作も行い、天正元年義久に降伏した。
このとき肝付氏に攻撃され、義久の援助を受けた。重長の子重張は島津義久・家久に属している。文禄検地で禰寝から薩摩国吉利に転封。二十四代清香の土岐、姓を小松と改めている。
菱刈氏
戦国時代には島津氏と戦い、弘治三年(1557)菱刈重豊は島津貴久と合戦し敗れている。永禄十年(1567)には菱刈隆秋が甥鶴千代を擁して、大隅大口.馬越等の諸城に拠り島津義久に対抗した。
隆秋は肥後の相良義陽と結んで、翌年正月。義陽の援軍を受けて、島津義弘を堂崎に破った。以降、隆秋は島津軍と戦い続けたが、永禄十二年、大口戸神尾の戦いで破れて島津氏に和を乞うた。義久は菱刈鶴千代に太良院の地を与えた。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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