■丹波の主な国人たち
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荻野氏

 荻野氏は、丹波の豪族葦田・赤井氏と同族である。その祖は信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光である。家光は源頼義の弟頼信の子頼季の孫にあたる。世にいう清和源氏頼季流である。荻野氏は一族の赤井・葦田氏と協力しながら勢力を伸ばしていった。戦国期の天文年中、朝日城の荻野氏は赤井氏から時家の次男才丸を養子として迎えた。才丸はのちに元服して右衛門尉直正と名乗った。

波々伯部氏

 波々伯部氏は、建武四年(1337)足利尊氏から、為光の戦功によって、伯耆国稲光保の地頭職に任じられ、波々伯部保を賜わり、淀山城を築城した。波々伯部光則は、足利義政に仕え、国人奉行を務め、長禄二年(1458)より殿中の年中行事に出仕した。光則の弟元則は細川右京大夫政元に仕え、血気盛んな勇士として知られた。天正五年(1577)、織田信長の命により明智光秀の丹波攻略が始まると、波々伯部光吉も八上城に篭城して光英軍と戦った。

足立氏

 足立氏は『足立氏系図』によれば、藤原北家流遠兼の子遠元を祖としている。鎌倉将軍三代実朝の頃、丹波国佐治庄に地頭職が置かれた。その時、新補地頭職として遠元の孫・遠政が補された。遠政は承元三年(1209)武蔵国から、七十人くらいの屈強の者を連れて佐治庄小倉へ移住した。天正七年(1579)五月、織田信長の第二回丹波攻めで、但馬から遠阪峠を越えて丹波に乱入してきた羽柴秀長の大軍と奮戦し、前線の遠阪城、そして山垣城、さらに他の支城もすべて落城した。

中澤氏

 中沢氏は武蔵国那珂郡中沢郷の出身といわれ、武蔵七党秩父氏系図・久下氏系図に中沢がみえている。基政が承久の乱(1221)の功により本領を安堵された上で、丹波国多紀郡大山荘の地頭に補任された。足利尊氏が丹波の篠村で反幕の旗上げをしたとき、中澤一族は尊氏軍に投じている。戦国期の中澤治部大夫は、赤井の軍師であったとも伝えている。織田軍の丹波侵攻に際して、大山城は明智軍をむかえ、堅固な大山城も明智の近代兵器の前に落城した。

酒井氏

 承久の乱後、酒井政親が酒井郷を賜り、以後、その子孫が繁衍して、当野・波賀野・初田・矢代・栗栖野・油井の諸氏を分出し、酒井党と呼ばれた。細川両家の内訌には澄元側に味方し、澄元派の没落で次第に衰退を余儀なくされていった。永禄年間にいたって、波多野氏の勢力下に組み入れられ、新たに一族の党的結合を図った。しかし、織田軍の丹波侵攻に主将となった明智光秀の軍勢の前に他の丹波の武士らと同様に没落した。

久下氏

 中世の丹波に勢を振るった久下氏は、舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔という。承久の乱には久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上った。戦後、かれは武蔵へは帰らず、所領の丹波国栗作郷金屋に留まった。南北朝の動乱期、久下一族は足利尊氏に属して各地に転戦した。明応二年、将軍義材に従って河内国へ出陣、しかし細川政元がクーデターで義財が没落し久下氏も流浪の身となった。そして、信長の丹波攻略に際して、窮乏のまま、赤井氏らとともに、明智光秀軍に押つぶされてしまった。

志賀氏

 志賀氏は清和源氏の流れと伝えられる。戦国末期には、四流に分かれて活動していたことが資料にみえる。北野城あるいは天王山城主として威を振るった。政綱のとき、明智光秀の丹波攻略に遭い降伏して、以後その配下となったようだ。天正十年、信長を弑殺した光秀と豊臣秀吉の戦った山崎の合戦に出陣し、敗戦により政綱は討死している。その子頼久は幼児であったが、乳母に抱かれて加佐郡桑飼村に逃れ、そこに隠れ住んだという。

大槻氏

 大槻氏は南北朝期より名があらわれ、戦国時代を通じて何鹿郡の国人として活躍した。高槻・八田・栗村一尾・大畠などの諸城主があるが、これら大槻氏の系譜関係については不詳である。文明のころより丹波守護の被官となったようだ。大槻氏の系統だった活動は詳らかにはできないが、口碑・合戦記などに散見することから、戦国末期には自立し、一勢力をなしていたことは間違いない。そして、明智光秀の丹波平定のときに敗れて帰農したものと考えられている。

【丹波の三強-波多野氏・赤井氏・内藤氏は『地方別戦国武将家一覧-近畿編-』をご覧ください。また、上林・塩見・金山氏の情報も-近畿編-をどうぞ。】

●Contents
●丹波の戦国-通史 ●丹波三強 ●丹波の主な国人 ●丹波国人の家紋
●丹波三強の居城 ●丹波の戦国武将割拠図