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・ 丹波の主な国人たち
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荻野氏

荻野氏は、系図によれば丹波の豪族葦田・赤井氏と同族である。その祖は信濃国高井郡井上村から移り住んだ 井上大炊介判官代家光である。家光は源頼義の弟頼信の子頼季の孫にあたり、世にいう清和源氏頼季流である。 とはいうものの荻野氏の場合、桓武平氏梶原氏流とする系図もあり、その出自に関しては異論がある。 丹波に根をおろした荻野氏は、一族の赤井・葦田氏と協力しながら勢力を伸ばしていった。戦国期の天文年中(1532〜)、 朝日城の荻野氏は赤井時家の次男才丸を養子として迎えた。才丸はのちに元服して荻野右衛門尉と名乗り、 奥丹波の戦国大名に成長した悪右衛門直正である。

波々伯部氏

波々伯部氏は、建武四年(1337)足利尊氏に属した為光の戦功によって、伯耆国稲光保の地頭職に任じられ、 さらに丹波多紀郡波々伯部保を賜わり淀山城を本拠とした。室町時代、足利義政に仕えた波々伯部光則は 国人奉行を務め、長禄二年(1458)より殿中の年中行事に出仕するなど幕府官僚としても活躍した。 また、光則の弟元則は細川右京大夫政元に仕えて血気盛んな勇士として知られるなど、 波々伯部氏は丹波における有数の武家であった。 天正五年(1577)、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略が始まると、波々伯部光吉は八上城に篭城して 光秀軍と戦った。

足立氏

足立氏は『足立氏系図』によれば、藤原北家流遠兼の子遠元を祖としている。鎌倉将軍三代実朝の頃、遠元の孫遠政は 承久の乱における戦功によって丹波国佐治庄の地頭職をえた。いわゆる新補地頭職で、 承元三年(1209)、遠政は武蔵国から七十人くらいの一族・郎党を引き連れて佐治庄小倉へ移住した。 戦国時代、黒井城主赤井氏と対立したが、のちに麾下に属して但馬山名氏に備えた。 天正七年(1579)五月、織田信長の丹波攻めに際して、但馬から遠阪峠越えで丹波に乱入してきた羽柴秀長の大軍を迎撃 した。しかし、最前線の遠阪城をはじめ本城の山垣城、さらに他の支城もすべて落城して足立氏は没落した。

中澤氏

中沢氏は武蔵国那珂郡中沢郷の出身といわれ、「武蔵七党秩父氏系図」「久下氏系図」などに中沢がみえている。 基政が承久の乱(1221)の功により本領を安堵された上で、丹波国多紀郡大山荘の地頭職に補任されて 移住したことに始まる。 足利尊氏が丹波の篠村で倒幕の旗上げをしたとき、中澤一族は久下氏らとともに尊氏軍に馳せ参じた。室町時代、 中沢氏は幕府官僚としても活躍したが、戦国時代のはじめ波多野氏に破れてのち、その麾下に属した。 織田軍の丹波侵攻に際して、中沢氏は大山城で明智軍を迎え撃ったが、堅固な大山城も明智の近代兵器の前に落城、 中沢氏は没落した。

酒井氏

酒井氏は桓武平氏といい、承久の乱後、酒井政親が酒井郷を賜って移住したことに始まる。もっとも、酒井氏の場合、 藤原秀郷流とする系図もあり、その出自に関しては検討を要する。ともあれ、酒井氏は酒井郷を中心として 子孫が繁衍して、当野・波賀野・初田・矢代・栗栖野・油井の諸氏を分出し酒井党と呼ばれた。 細川両家の内訌に際しては澄元側に味方し、澄元派の没落で次第に衰退を余儀なくされていった。 永禄年間(1558〜)にいたって波多野氏の勢力下に組み入れられ、新たに一族の党的結合を図った。しかし、 織田軍の丹波攻めの大将となった明智光秀軍の攻勢に敗れ去り、生き残った一族は武士をすてて帰農した。

久下氏

氷上郡玉巻城に拠った久下氏は、系図によれば舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔という。源頼朝の旗上げのとき 一番に馳せ参じたことから「一番字」紋を許されたことは有名。 承久の乱に際して久下三郎は幕府軍の一員として上洛、戦後、武蔵へは帰らず丹波国栗作郷金屋に留まって土着した。 南北朝の動乱期、久下一族は足利尊氏に属して各地に転戦して勢力を拡大し将軍側近としても活躍した。 明応二年(1493)、将軍義材に従って河内国へ出陣したが、細川政元のクーデターで義材が没落すると 久下氏も流浪の身となり所領の多くを失った。信長の丹波攻めには赤井氏に属して抗戦したが敗れて落城、 没落となった。

志賀氏

志賀氏は何鹿郡志賀郷から起こった武家で、清和源氏頼政の流れと、武内宿弥の流れの二つの系図が伝来している。 戦国期には、北野城あるいは天王山城によって在地(国人)領主として威を振るい、史料からは四流に分かれて活動していたことが知られる。 嫡流と目される志賀城主政綱のとき、明智光秀の丹波攻略に遭い降伏して、以後その配下となったようだ。 天正十年、信長を弑殺した光秀と豊臣秀吉の戦った山崎の合戦に出陣し、敗戦により政綱は討死した。 その子頼久は乳母に抱かれて乳母の里加佐郡桑飼村に逃れ、そこに隠れ住み帰農したという。

大槻氏

大槻氏は清和源氏の流れといい、南北朝期より名があらわれ、戦国時代を通じて何鹿郡の国人領主として活躍した。 高槻・栗村一尾・八田・大畠などの諸大槻氏がいたが、これら大槻氏の系譜関係は不詳で、 その系統だった活動は詳らかにはできない。とはいえ、延徳年間(1489〜91)、守護代上原豊前守の圧政に抵抗して 荻野氏らとともに位田の乱を起こし、永禄三年(1560)には若狭の逸見駿河守の丹波侵攻を迎撃するなど、 大槻氏の活躍は口碑や合戦記などに散見している。戦国末期には、自立した一大勢力をなしていたことは間違いない。 明智光秀の丹波攻めに他の丹波武士らとともに抵抗し、敗れて帰農したという。

芦田(蘆田・葦田)氏

芦田*氏は平安時代の末期に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来住し、井上から芦田と改めたことに始まるという。 丹波に移住した芦田氏は、小室(東芦田)城を築き、さらに栗住野に屋形を構えて在地領主に成長した。 芦田氏からは赤井・荻野・大槻氏らが分かれ出たというが、系図が作為された可能性が高い。 戦国時代の弘治元年(1555)、足立氏とともに細川氏綱方となった芦田氏は、 細川晴元方の赤井・荻野一族と香良で戦い、壊滅的敗北を喫し芦田上野介光遠らが討死した。以後、芦田・足立氏らは 赤井氏の麾下に属し、天正七年(1579)、織田軍の攻撃を受けた芦田氏の諸城は落城、子孫は帰農した。
* 芦田氏の場合、蘆田・葦田と書かれたものもある。『字訓』によれば「蘆(ろ)は葦の異名。 穂のないうちは「蘆」、穂が出たものは「葦」という」とあり、『大漢語林』では「葦、あし・よし。イネ科の多年草。 生え初めを葭(か)、大きくなったものを蘆(ろ)、成熟したものを葦という。芦は蘆の俗字」とある。そして、 『角川大字源』では「葦は、あしの大きく成熟したものの意で、人名には葦は(あし)蘆は(よし)」とあることなどから、 もともとは葦田と表記していたのではなかろうか。ちなみに、会津葦名氏も芦名氏と表記されることがあるが、 国重要文化財「葦名盛氏座像」の厨子の扉には「葦名修理大夫平朝臣盛氏」の在銘があり、葦名が正しい表記で あったことが確認されている。おそらく、植物として未成熟の蘆やその俗字である芦の字を使うより、縁起という面からも 成熟した葦の字を用いたものであろう。このように、芦田氏の「アシ」の字も葦名氏と同様に「葦」が本来のものであった と思われるが、現在では芦田と表記している家が多いようだ。


吉見氏

吉見氏は伝によれば、源範頼の次男三郎資重が、建久年間(承久年間であろう)に丹波国鹿集庄(吉見庄)を与えられ、 武蔵国から移住したことに始まるという。しかし、「尊卑分脈」や「系図纂要」などの吉見系図には資重は見えず後世の 仮冒と思われる。南北朝期、吉見小三郎があらわれるが、中世丹波における動向は詳らかではない。戦国時代、 吉見式部少輔則重・守重父子は、黒井城主赤井氏に属して明智光秀の丹波攻めに対抗した。天正六年、 明智左馬助光春の攻撃で鹿集城は落城、則重は討死した。生き残った吉見一族は帰農して、いまも丹波に多く分布する 吉見姓は鹿集城主吉見氏の後裔と伝えている。

余田氏

余田氏は久下・足立・吉見氏らと同様に関東から丹波に西遷してきた関東御家人の系譜をひく武家であった。 伝によれば、元暦元年(1184)二月*、余田又太郎為綱が関東より余田谷に来住したという。元暦の合戦の功において 源頼朝の一番の御意にかない、「丸に一文字」の紋を畠山六郎によって下されたと伝える。元弘三年(1333)、 足利尊氏が篠八幡で倒幕の兵を挙げたとき、久下弥三郎をはじめ芦田・酒井・中沢・山内らの丹波武士が馳せ参じたが 余田氏もその一人であった。全盛期には余田谷を本拠として現在の市島町域を席捲する勢いがあったようだ。   * 源頼朝が征夷大将軍に任官された建久三年(1192)以降のことであろうと思われる。


・各氏の詳細に関しましては- 地方別武将家 [近畿編] をご覧ください。


CONTENTS
●丹波の戦国通史 ●丹波三強 ●丹波国人伝 ●国人の家紋 ●三強の居城 ●戦国武将割拠図