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中澤氏
酢漿草/丸の内二引両
(武蔵七党秩父氏の一族)


 中沢(澤)氏は武蔵国那珂郡中沢郷の出身といわれ、「武蔵七党秩父氏系図」「久下氏系図」などに中沢がみえている。源頼朝の石橋山における旗揚げの頃より、頼朝の麾下に参加していた。
 承久の乱(1221)における基政の功により本領を安堵された上で、新恩として丹波国多紀郡大山荘の地頭に補任された。大山荘の荘園領主は京都の東寺で、中沢氏は東寺と激しく所領支配をめぐって相論を繰り広げたことで知られている。現在中沢氏諸家に共通する紋に「丸に二つ引」があり、基政らは源氏を称していたようでもある。また、一族のなかには、長沢を名字とした家もある。
 基政は地頭補任後、現地には地頭代を派遣していた。そして、地頭代を通して大山荘の支配を浸透させ、弘治二年(1241)には地頭請を成立させた。この地頭請成立後、基政本人が大山荘に入部し、中沢氏による本格的な地頭領主制が展開されることになる。弘安年間(1278~87)になると、東寺への年貢納入が滞るようになり、再び東寺と地頭中沢基員との間で相論が始まった。東寺側は六波羅に訴え、裁決は幕府にゆだねられた。結果、東寺は1/3の現地管理権を取り戻し、基員は残り2/3の地頭一円所領化をかちとったのである。
 正安二年(1300)、基員は六波羅探題から丹波国守護代とともに、丹波の悪党を追捕することを命じられている。丹波国内における中沢基員の政治的地位の高さと、強大さがうかがわれる。
 また、栗作郷の久下氏とは鎌倉開府以前より室町後期まで、「久下、中沢の一族」と呼ばれる程の緊密な関係を続けていた。
・写真:中澤氏が拠った大山城址

中世の争乱

 元弘三年(1333)、後醍醐天皇が隠岐の配所から脱出し、船上山から全国の武士に宮方への参戦を呼びかけたが、その密勅は丹波一円にも届いていた。氷上郡の荻野氏は、志宇知等氷上郡の武士団を集め、丹波国氷上郡高山寺に構えて六波羅と対峙した。久下、中澤へも呼びかけがあったであろうが、それには参加していない。
 やがて、足利尊氏が丹波の篠村で反幕の旗上げをした事によって丹波の武士団は大きく動揺をうけ、尊氏に就く者、反する者と去就様々であったが、このとき中沢一族・久下氏らは尊氏軍に投じた。
 鎌倉幕府滅亡直後の元弘三年九月、建武新政府は備中国新見荘、若狭国太良荘とともに丹波国大山荘地頭職を東寺に永代寄進した。これにより、地頭中沢氏は大山荘から逐われることになったが、鎌倉時代より地頭領主制を展開してきた中沢氏は「前地頭」として、その在地に培った実力をもって、東寺の支配に抵抗し押領を続けた。そして、南北朝時代も半ばごろになると、東寺は中沢氏を大山荘から放逐することをあきらめたようで、中沢氏は地頭職を回復することができた。
 丹波の在地武士団は互いに連携しあって領地を支配しており、中沢の武士団は建武の新政と共に丹波国に入部した守護碓井盛景の館を同勢の久下一族や波伯々部(はうかべ)一族と一緒になって襲撃し、摂津国に追い払ってしまい、自分達にとって都合の良い北条一門の者を守護に据えるという、驚くような実力行使を行っている。
 丹波の伝承書によると、鎌倉末期から室町後期にかけて丹波の四強は、久下、中澤、波伯々部、荻野であったと伝え、また、室町幕府奉行人として活躍した中沢備後守光俊(豊前守、掃部大夫)の子孫と伝えている。
 室町期には「久下、中沢の一族」と呼ばれ、明徳年間には多くの所領を得て、丹波国内において大きな力を保持していた。波伯々部は多紀郡波伯々部保の土豪で、大山庄から都への街道添いに拠点があった。荻野は氷上郡朝日を本拠とする地頭で、氷上郡だけでなく但馬方面にも勢力を伸ばし、尊氏の旗上げには反抗したものの後に尊氏方に与している。
・見聞諸家紋に見える中沢氏の家紋「三つ盛酢漿草に二つ引両」

戦乱に呑まれる

 戦国時代になって、荻野の一族である氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正が但馬の山名の一族を攻めた事から、山名は慌てて織田信長に助けを求めた。信長はそれをきっかけとして自ら丹波攻略に出陣しようとしたが、明智光秀がそれを止め、光秀が丹波に向かうことになった。これが明智光秀の丹波攻めの始めである。
 赤井直正は丹波の赤鬼と称されてその勇猛は近隣に響いており、中沢治部大夫は赤井の軍師であったとも伝えている。八上城の波多野氏・赤井氏を中核とする丹波武士団は、明智光秀の丹波攻めを迎え撃った。地理に通じる丹波武士は、明智軍を丹波の奥地に誘い込み、一斉に猛 反撃を加えて明智の大軍を壊滅状態にまで大敗させた。さらに勝ちに乗じた丹波勢は、光秀を討ち取る寸前まで追い込んだが、あと一歩のところで愛宕山から逃げられている。
 その後、態勢を立て直した光秀はふたたび丹波攻めを開始し、八上の波多野氏を助ける氷上の波多野一族や、勇猛を馳せた氷上郡黒井城主赤井氏を牽制するため、八上と氷上の間にある金山を押さえようとした。しかし金山への道には中沢孫十郎伯耆守重基が拠る大山中沢城があり、重基は波多野の麾下として古山陰街道の要所を押さえていた。光秀にすれば、どうしても大山城の中澤を滅ぼす必要があった。
 こうして、大山城は明智軍をむかえることになった。刀や槍の戦いに対しては堅固な大山城も、明智軍の装備する近代兵器の前には全く無防備というしかなかった。やがて、川の対岸より火薬を使った火矢を仕掛られ、若き藤堂与吉高虎に一番乗りの高名を許し、大山城はついに落城した。ここにおいて、鎌倉時代のはじめより丹波の一角に割拠した中沢氏は滅んだ。・2004年11月25日

大山城址を訪ね、歩く




大山川の絶壁を要害として築かれた城址には、曲輪・土塁・空堀が点在している。城址からは篠山方面が遠望でき、戦国時代当時を彷佛できる貴重な城跡といえそうだ。(六月はじめに再訪)【右端:大山城縄張図】

→篠山の山城探索
【参考資料丹波国多紀郡大山庄地頭 中澤氏の研究/大山村史/多紀郡郷土史 ほか】

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■参考略系図

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