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・ 丹波三強の居城
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●内藤氏の居城、八木城祉
 八木城は、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。城主の内藤氏は多紀郡曾地の在地領主で、 南北朝時代の道勝・秀継父子のとき足利尊氏の篠村八幡宮での挙兵に応じ、戦功により桑田・船井郡に所領を賜った。 のち、船井郡八木に移住し本拠として築いたのが八木城であった。室町時代、丹波守護細川氏の守護代となり、 丹波の一大勢力となった。
 細川二流の乱に翻弄されたが、国貞の没後に家督となった宗勝(松永長頼)は、丹波一円を支配する勢いを見せた。 しかし、 赤井直正との戦いに敗れて戦死、内藤氏の勢力は大きく後退した。宗勝のあとを継いだのがキリシタン大名として 知られるジョアン(忠俊)で、秀吉に仕えて活躍したがキリシタン禁教令によって国外に追放された。
 八木城は中世の山城としては有数の規模を誇る堅固な城塞で、丹波国内では八上城・黒井城と並んで 三大山城のひとつに数えられる。天守閣の祖形という金の間の存在でも知られている。
・登城:2007年12月15日


●赤井氏の居城、黒井城祉
 南北朝時代の建武二年(1335)に赤松貞範が、猪ノ口山山頂に城を築いたのに始まるとされている。 戦国時代に萩野(赤井)悪右衛門直正が城主となり、城郭の大改修を全面的に行った。その縄張りは、 猪ノ口山全域におよぶ壮大なものである。
 赤井直正は毛利氏と結んで織田信長と敵対、信長の丹波攻めのきっかけをつくった。 天正三年(1575)、信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めが始まると、波多野氏をはじめ丹波武士たちは 光秀に従い黒井城攻撃に従軍した。 光秀軍が城に迫ったとき、赤井軍が打って出たのに呼応して、波多野軍が光秀軍の背後から襲いかかった。 敗れた光秀は命からがら近江の坂本城へ逃げ帰った。この戦いは、赤井と波多野があらかじめ 示しあわせていたものといい、「赤井の呼び込み作戦」として語り継がれている。
 その後、態勢を立て直した光秀はふたたび丹波に打ち入った、対する直正は不運にも病死。 直正を失った赤井氏は黒井城に拠って頑強に抵抗を続けたが、天正七年八月、落城した。
・登城:2007年01月20日


●波多野氏の居城、八上城祉
 丹波富士と呼ばれる高城山に、波多野氏が室町時代の後期に築いた山城である。 城主波多野氏は、応仁の乱において東軍の領袖細川氏の被官として活躍、丹波多紀郡に所領を与えられた。 以後、着実に勢力を拡大した波多野氏は、元秀(晴通)のころ丹波西部における有力領主となった。
 細川二流の乱がもたらした三好長慶との抗争によって、八上城は松永久秀の攻撃によって落城したが、のちに 秀治らが回復した。以後、波多野氏は八上城を拠点として丹波一円に勢力を拡げていった。 その後、足利義昭=織田信長政権に帰服した波多野秀治は、天正のはじめには丹波の戦国大名に成長し、 八上城は丹波随一の堅城となった。
 やがて、織田信長の丹波攻めが開始されると、赤井直正と結んで毛利方に転じた。秀治は 八上城に拠って明智光秀軍の攻撃にに抵抗したが、兵糧攻めにあって天正七年六月に開城、秀治らは 安土で処刑されて滅亡した。
・登城:2007年12月01日



CONTENTS
●丹波の戦国通史 ●丹波三強 ●丹波国人伝 ●国人の家紋 ●三強の居城 ●戦国武将割拠図