■丹波三強の居城
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●内藤氏
の居城、八木城祉
八木城は、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。城主の内藤氏は多紀郡曾孫地城主出会ったが、顕勝が足利尊氏の篠村八幡宮での挙兵に応じ、戦功により船井郡を賜り八木に移住し、この城に拠ったのが始まりとされる。
内藤氏は丹波守護となった細川氏の守護代となり、丹波に勢力を広めた。その後、興亡を繰り返し、織田信長の丹波侵攻に際して、ときの城主有勝は、明智光秀を迎え撃って勝利、一時は和睦したがふたたび攻められ、戦死、城は落ちた。
八木城は堅固な山城で、丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、 また、中世の山城としては有数の規模を誇る。
・登城:2007年12月15日
●赤井氏
の居城、黒井城祉
南北朝時代の建武二年に赤松貞範が、猪ノ口山山頂に城を築いたのに始まるとされている。戦国時代に萩野悪右衛門直正が城主となり、全面的に城郭の大改修を行った。その縄張りは、猪ノ口山全域におよび、丹波国内では、八上城、八木城と並んで三大城郭のひとつといわれる。
天正三年、明智光秀から降伏の勧告を受けた丹波連合軍は、赤井直正を除いて光秀に従い、ともに黒い城を攻撃した。光秀軍が城に迫ったとき、赤井軍が打って出たのに呼応して、波多野軍が光秀軍の背後から襲いかかった。光秀は命からがら近江の坂本城へ逃げ帰った。
この戦いは、hじめから赤井と波多野の間に降伏とみせかけ、光秀を丹波に誘い込んで打つ作戦であったといい、いまも「赤井の呼び込み作戦」として語り継がれている。しかし、その後ふたたび丹波に打ち入った光秀軍を前に、直正は病死。直正を失った赤井氏はなおも頑強に抵抗したが、結局天正七年、落城した。
・登城:2007年01月20日
●波多野氏
の居城、八上城祉
丹波富士と呼ばれる高城山に、波多野氏が室町時代の後期に築かれた。城主波多野氏は、応仁の乱に細川氏の被官として活躍、秀通のとき自立して丹波を領し、その居城とした。一時、松永久秀に占領されたが、秀治らが回復し、以後、波多野氏はこの城を拠点として丹波一円に勢力を拡げ戦国大名に成長していった。
八上城は、天正のころ丹波国内で最大の堅城となっていた。やがて、織田信長の丹波侵攻が開始され、はじめは信長に属した波多野氏であったが、のちに毛利方に転じ、明智光秀軍に攻められ、よく戦ったが、結局、落城し波多野氏は滅亡した。
・登城:2007年12月01日
●Contents
●丹波の戦国-通史
●丹波三強
●丹波の主な国人
●丹波国人の家紋
●丹波三強の居城
●丹波の戦国武将割拠図