■丹波三強
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赤井氏
丸に結び雁金
(清和源氏満快流) |
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戦国時代に丹波で勢力を誇った赤井氏は、清和源氏頼季流である。戦国時代、丹波には船井郡に本拠を置く内藤一族と、氷上郡を支配する赤井一族、多紀郡を本拠とする波多野一族とが割拠し、この三家が戦国期の丹波国における最大の旗頭であり、そのなかで赤井一族を統帥したのが、荻野悪右衛門直正であった。
永禄八年(1565)八月、内藤宗勝と、赤井一族は「和久郷」において合戦におよんだ。結果は、赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。しかし、雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏らの「天田郡馬廻衆」が鬼ケ城を攻めたて、ついに貞勝を討ち取った。
「和久郷の決戦」は、守護代家の内藤宗勝と新興の赤井(荻野)直正とが、丹波の覇権を争っての大きな合戦で、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった合戦であった。以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、内藤氏の勢力は大きく後退することになり、丹波は三好氏の分国を離脱した。かくて、赤井直正は丹波黒井城にあって威を隣国にふるった。
波多野氏
丸に竪二つ引両/丸に抜け十字
(藤原氏北家秀郷流?) |
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丹波波多野氏の出自については、諸説があって判然としない。一説には波多野氏は相模波多野庄に住んだ藤原秀郷の後裔、波多野義通を祖とし、経基が丹波に住じ、以後、子孫が丹波波多野氏を称したという。経基の父義基が伯耆波多野氏を、子経秀が美作波多野氏を興したと伝える。
応仁の乱で波多野秀長は細川勝元方に属し、各地を転戦し、勝元の死後、政元から丹波多紀郡を与えられた。以後、この地を中心に丹波一円へ勢力を伸長させていった。
永禄九年(1566)晴通の養子秀治は、八上城を奪回し、丹波第一の堅城として、三好三人衆と戦って丹波一国を支配するほどの一大勢力を築いた。同十一年織田信長が上洛すると、丹波黒井城の赤井直正とともに信長に降った。
その後、信長が将軍義昭と不和になると、荻野・赤井氏ら丹波国衆は義昭側に付いた。天正三年(1575)、信長の先鋒明智光秀が丹波に攻め込み荻野直正を攻めたが、翌四年信長側であった秀治は、突如背いて光秀を襲った。以後、赤井氏らとともに明智光秀の軍と戦うこととなった。
中世、丹波国土豪。藤原氏秀郷流を称していた。建武三年(1336)京都を撤退した足利尊氏は、丹波国の内藤左衛門尉の館に入っている。この内藤氏は奥丹波の国人で、細川氏の被官となり、その守護代として活躍している。
内藤貞正は、文亀三年から細川政元の丹波守護代。永正五年、伊丹元扶らとともに細川高国に属し、細川澄元・三好之長らを京都に襲い近江に走らせている。天文・永禄にかけて丹波の雄、波多野氏や内藤氏が、三好氏をまきこんで抗争を繰り広げている隙に、黒井城主赤井氏は不気味に天田・何鹿郡を蚕食しはじめていた。
永禄八年八月、内藤宗勝と、赤井一族は「和久郷」において合戦におよんだ。結果は、赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。そして、雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏らの「天田郡馬廻衆」は鬼ケ城を攻めたて、ついには貞勝を討ち取った。
●Contents
●丹波の戦国-通史
●丹波の主な国人
●丹波国人の家紋
●丹波三強の居城
●丹波の戦国武将割拠図
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