赤井氏
丸に結び雁金
(清和源氏満快流) |
|
丹波氷上郡に割拠した赤井氏は、清和源氏頼季流を称している。戦国時代の丹波には船井郡に内藤一族、
多紀郡に波多野氏が割拠し、赤井・内藤・波多野の三家が戦国期の丹波における三大勢力であった。
その赤井一族を統帥したのが黒井城に拠った赤井(荻野)悪右衛門直正であった。
永禄八年(1565)八月、赤井直正は八木城主内藤宗勝と天田群の「和久郷」において一大決戦におよんだ。結果は赤井方の大勝利で、
内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は鬼ケ城に脱出したが、赤井方に走った横山氏らに攻められて貞勝らも戦死した。
この「和久郷の決戦」は、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった合戦であった。三好氏を後ろ盾としていた
内藤氏の勢力は大きく後退して、丹波は三好氏の分国から離脱した。
以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、赤井直正は氷上・天田郡を支配下におく一大勢力となって
威は但馬にまでにおよんだ。永禄十一年、義昭を奉じて上洛した信長に帰服したが、のち義昭・毛利氏と結んで離反、
信長の命を受けて丹波に攻め込んだ明智光秀を迎え撃った。戦いの最中に直正は病没し、天正七年、黒井城が陥落して
赤井氏は没落した。
波多野氏
丸に抜け十字/丸に竪二つ引両
(藤原氏北家秀郷流?) |
|
|
丹波波多野氏の出自については、諸説があって判然としない。一説には藤原秀郷の後裔で相模国波多野庄に住んだ
波多野義通を祖とし、丹波に移住した経基の子孫が丹波波多野氏になったという。最近の研究によれば、
石見から出た吉見清秀が細川勝元に仕え応仁の乱で活躍、のちに母方の名字波多野を称し丹波多紀郡の支配を任せられたという。
以後、波多野氏は八上城を築いて丹波一円に勢力を伸長させていった。
その後、盛衰はあったが、戦国時代末期の波多野秀治は、松永久秀・三好三人衆と戦って丹波一国を支配するほどの
一大勢力となった。永禄十一年、足利義昭を奉じた織田信長が上洛すると、赤井直正らとともに義昭に帰服した。
しかし、信長と将軍義昭が対立するようになると、赤井氏ら丹波国衆の多くが義昭側に付いて信長から離反した。
天正三年(1575)、信長の先鋒明智光秀が荻野直正を攻めたとき、秀治は光秀に味方して黒井城攻めに加わった。
ところが、翌年、赤井氏に通じて光秀を挟撃、光秀は氷上郡から敗走した。かくして、波多野氏は黒井氏らとともに
織田氏に敵対した。しかし、天正七年、城を開いて降伏、秀治らは安土で処刑された。
内藤氏
丸の内輪鼓/輪鼓に手鞠
(藤原氏秀郷流) |
|
|
内藤氏は藤原氏秀郷流を称し、多紀郡曽地から発祥したという古くからの国人領主である。建武三年(1336)、
京都を撤退した足利尊氏を内藤左衛門尉は曽地の館に迎え入れて接待したことが「太平記」に記されている。
やがて、細川氏の被官となり、細川氏が丹波守護職に任じられると守護代を務めて八木城主となった。
細川政元に仕えた内藤貞正は、文亀三年(1503)より丹波守護代として活躍した。政元の死後、
細川二流の乱が起こると、伊丹元扶らとともに細川高国に属し、細川澄元・三好之長らを京都に襲い
近江に走らせている。以後、繰り返される細川氏の内訌に翻弄され、波多野氏、三好氏らと抗争を繰り広げた。その間、
氷上郡の赤井氏が勢力を伸ばし、天田・何鹿郡を蚕食するようになった。
永禄八年八月、内藤宗勝(松永長頼)は「和久郷」において赤井直正と合戦におよんだ。結果は、
敗れた内藤宗勝は戦没し、鬼ケ城に敗走した貞勝らも赤井方に転じた横山氏ら「天田郡馬廻衆」に討ち取られて
内藤氏の勢力は大きく後退した。有名なキリシタン大名内藤如安は宗勝の遺子である。
・各氏の詳細に関しましては-
[近畿編]
をご覧ください。】
|