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・ 通 史



●細川両家の内訌と丹波武士

 丹波守護家の細川氏は丹波・摂津・四国など数ケ国の守護を兼ね、一族一致して惣領家に従っていて、他の管領家が内紛などで衰退するなかで最も権勢を保っていた。しかし、管領職を勤めた細川政元の横死後、その養子とそれを取り巻く守護代らの勢力争いから二家に分かれて争うようになり、そのため丹波の武士たちも、それを利用して互いに争うようになった。
 天文元年(1532)流浪中の細川高国(道永)の養子晴国が丹波に入り多紀郡の波多野氏を頼った。これは高国が亨禄四年(1531)六月、細川晴元軍の三好元長と天王寺および尼崎で戦って敗れ、自殺させられたため、その後継者として晴元を討つためであった。波多野氏はこれに応じて、晴元側から寝返って同年十月、晴国を奉じて兵を挙げた。

●丹波守護-細川氏系図

 晴国を奉じた波多野氏は晴元方の赤井忠家を攻略して氷上郡を制圧しようとして天文二年五月穂坪(母坪)城に兵を進めた。このとき、城を守っていたのは晴元の臣赤沢蔵人景盛であった。城兵は波多野氏の攻撃をよく守ってこれを退けた。しかし、このときの戦で赤井忠家は戦死したようで、忠家は館の大手で戦死したと伝えられている。退却した波多野氏は同年十月、ふたたび穂坪城を襲って激戦となり、死守した赤沢景盛兄弟をはじめ多くの兵が討死して城は落ちた。このとき、船井郡八木城の丹波守護代内藤国貞も救援に来ていて敗れたという。そして、丹波のほとんどは波多野氏の支配下に入った。
 城を占領された忠家の子時家は、子の家清とともに播州へ落ち三木の別所氏を頼って行った。その後、父子は丹波に戻り、所領をぼつぼつと回復し、諸荘園の侵略などを行っている。時家父子が丹波に帰還できたのは、細川晴元が将軍義晴と和解し晴元政権が安定し、一方、波多野氏が奉じていた高国が自殺したことなどにより、波多野氏が晴元方に帰参したことによる。 時家は丹波に帰ると烏帽子岳に城を築いた。そして、この城を天田郡進出の拠点としたのである。
 その後、晴元政権も安泰では続かず、細川尹賢の子氏綱が高国の跡目と称し、天文十二年晴元に対立、細川二流の対立は激しくなった。晴元側であった三好長慶が寝返って氏綱方となったため、晴元は引退し、細川の惣領は氏綱となった。しかし、晴元は所々に出没して策謀し、ついには波多野氏を頼ってきた。そして、天文二十一年(1552)四月より八上城は攻撃を受けることになった。
 弘治元年(1555)晴元側の赤井一族と氏綱方の芦田・足立連合軍が香良で大決戦を行った。赤井方は時家の子家清が弟直正ら一族を率いて南から、芦田・足立連合軍は北から対陣したのである。戦は激戦で、芦田・足立方は一族三十六人ことごとく戦死し、赤井方も家清は負傷し、直正も十二ケ所の傷を負い家来に負われて帰ったという。

●丹波守護代内藤氏と赤井氏の抗争

 内藤氏は口丹波の有力国人で、細川氏の被官となり、その守護代として活躍した。内藤国貞は、はじめ細川高国に従ったが、大永六年、弟香西元盛を細川尹賢の讒言によって殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波八上・鳴尾両城に拠って細川高国にそむいたとき、これに呼応して尹賢の率いる追討軍から離脱している。
 天文二年、将軍足利義晴の赦免をうけて細川晴元に属し、丹波守護代に復している。このころから、丹波国八木城を居城として自立化した。三好長慶が細川晴元と対立したとき、長慶に属している。そして天文二十二年(1553)長慶の部将松永久秀らとともに晴元方の波多野晴通を攻めたが、逆に晴通を赴援した香西元成・三好政勝らに攻められ八木城は落城、国貞は戦死した。
 このとき、松永久秀の弟長頼は残兵を糾号して一日で八木城を奪回、この軍略によって一躍長慶の重臣にのしあがり、丹波一国をあずけられた。以後、丹波八木城主として守護代内藤氏の名跡を継承する地位にあり、やがて内藤氏を継ぐかたちとなった。長頼はのちに内藤宗勝を称したことが知られる。
 天文・永禄にかけて丹波の雄、波多野氏や内藤氏が、三好氏をまきこんで抗争を繰り広げている隙に、黒井城主赤井氏は不気味に天田・何鹿郡を蚕食しはじめていた。  この赤井勢の天田郡侵入を、天田郡の土豪たちに「天田郡馬廻衆中」と書状を認めた、丹波守護代の内藤宗勝が黙過するはずもない。宗勝も「天田郡馬廻衆」を援助するために、軍を天田郡に進めた。
 永禄八年(1565)八月、内藤宗勝と、赤井一族は「和久郷」において合戦におよんだ。結果は、赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。しかし、雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏らの「天田郡馬廻衆」が鬼ケ城を攻めたて、ついに貞勝を討ち取った。
 「和久郷の決戦」は、守護代家の内藤宗勝と新興の赤井(荻野)直正とが、丹波の覇権を争っての大きな合戦で、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった合戦であった。以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、内藤氏の勢力は大きく後退することになり、丹波は三好氏の分国を離脱した。かくて、赤井直正は丹波黒井城にあって威を隣国にふるった。

●八上城主、波多野氏の動向

 応仁の乱で波多野秀長は細川勝元方に属し、各地を転戦し、勝元の死後、政元から丹波多紀郡を与えられた。以後、この地を中心に丹波一円へ勢力を伸長させていった。
 その子稙通は、永正十二年(1515)朝茅山に築城した。これが八上城である。大永六年(1526)に弟香西元盛が細川尹賢の謀略で自殺させられた。稙通は八上城に拠り、もうひとりの弟柳本賢治とともに細川高国に反旗を翻し、細川晴元と結んだ。
 そして、三好軍とともに高国・尹賢軍を破った。高国は将軍義晴を擁して近江に逃亡したため、賢治らは入京し、京都の支配権を握った。しかし、享禄三年(1530)、播磨三木の別所氏の依頼で依藤氏の討伐を図ったが、細川高国・浦上村宗に通じた部下に暗殺され、元秀もともに死去した。
 元秀を賢治に従軍させ、稙通は八上城にいた。天文二年(1533)細川晴国に味方して晴元方の赤沢景盛を丹波母坪城に戦死させている。晴国の死後、晴元に属して同七年、三好政長とともに丹波守護代内藤国貞の八木城を陥れ、同十四年、三好長慶とともに内藤顕勝の関城を攻め、これを落とし丹波一帯の支配に成功した。
 その後、三好長慶と細川晴元が対立し、波多野氏は晴元に味方した。天文二十一年(1552)長慶は八上城を包囲した。時の城主は稙通の子晴通だったがこれを防いでいる。翌二十二年、長慶の部将松永久秀に攻められ、弘治元年(1555)にも三好政長に攻められたが。香西元成らの援軍を得て撃退した。同三年長慶は八上城を攻め、ついに落城。松永久秀の甥孫六が八上城に入城した。
 永禄九年(1566)晴通の養子秀治は、八上城を奪回し、丹波第一の堅城として、三好三人衆と戦って丹波一国を支配するほどの一大勢力を築いた。同十一年織田信長が上洛すると、丹波黒井城の赤井直正とともに信長に降った。

●織田信長の丹波侵攻

 その後、信長が将軍義昭と不和になると、荻野・赤井氏ら丹波国衆は義昭側に付いた。全国制覇を目指す織田信長にとって、山陰・西国の喉元にも等しい丹波を平定することは急を要した。天正三年(1575)、信長の先鋒明智光秀が丹波に攻め込み荻野直正を攻めたが、翌四年信長側であった秀治は、突如背いて光秀を襲った。これは、丹波に支配力を強化しようとする波多野氏と、信長勢力の伸長を恐れる毛利氏の働きかけが背後にあり、両者の利害が一致した結果と考えられる。
 やがて、信長と毛利氏の対立が激化すると、天正五年、羽柴秀吉は中国へ進出し、明智軍は再度丹波攻略を開始した。光秀は、細川藤孝を副将としてぞくぞくと丹波へ軍勢を送り込んだ。 天正三年(1575)から七年にかけて前後数回にわたる丹波攻略の戦いはすさまじかった。物量にものをいわせる織田方と、がっちりと手を結んで反織田に燃える丹波勢との間には、いくたびかの死闘が繰り広げられた。
 天正六年二月には、三木の別所長治が信長に離反した。長治と姻戚関係にあった秀治は氷上城の一族波多野宗長とともに長治を援助した。こうして織田軍と籠城戦を展開していた波多野秀治も兵糧が尽き、天正七年(1579)六月弟秀尚とともに降伏した。光秀は波多野兄弟を安土へ送った。信長は兄弟のたびたびの表裏、侍の本分を知らぬものとして慈恩寺で磔刑に処した。ここに丹波に勢力を張った波多野氏は滅亡した。また、八上落城の一ヵ月前、氷上城の宗長・宗貞父子も攻められて自害した。
 丹波の諸城は相次いで潰えて、ついに孤立無縁となった赤井氏の居城で丹波の牙城・黒井城が落ちたのは天正七年八月九日であった。その後の赤井氏は直正の兄家清の子、弟幸家、末弟時直らは旧知の縁をたどって徳川旗本となり、直正の子孫は藤堂氏の重臣となっている。

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CONTENTS
●丹波の戦国通史 ●丹波三強 ●丹波国人伝 ●国人の家紋 ●三強の居城 ●戦国武将割拠図