下坂氏
隅立て四つ目結
(清和源氏頼信流) |
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下坂氏は、近江国坂田郡下坂田村に中世以来居を構えた国人領主であった。『下坂家系図』によれば、下坂氏の祖は、清和源氏源頼信で筑前権守久兼を祖として、初めは高島郡田中郷に住していたが、久兼四世の孫である刑部丞基親が初めて下坂郷に移住して下坂を名乗ったという。
下坂重茂は、建武三年(1336)七月、足利直義から感状を受けている。感状から、下坂重茂は兄弟、親類を率い、足利尊氏にいちはやく味方していたこと、近江国から京都にかけての各地で戦いに加わっていたことが知られる。
重茂は足利義詮からも観応三年(1352)に感状を受けている。八幡において忠節を尽くしたことが、近江守護佐々木秀綱の注進によって明かになったことが記されている。秀綱は高氏(道誉)の長子で義詮の信頼を一身に集めた人物である。この文書によって、下坂氏は佐々木高氏・秀綱の近江守護佐々木氏の指揮下に編成されており、のち、戦国時代に下坂氏が京極氏の重臣となったもとは、南北朝内乱期の将軍足利氏・守護佐々木氏に心を寄せ、合戦に参加した点にあった。
ところで、重茂には嫡子茂俊がいたが、姪を養女として、当時権勢をもっていた佐々木氏一族の高島越中守の子重秀を迎えて婿養子とし、下坂家の惣領としたと伝える。以後、下坂氏は佐々木氏の一族となり、家紋も佐々木一族の四つ目結紋を許され、京極氏に尽くしたという。
下坂氏は、室町時代初期に京極氏に勢力下にあったが、その後しばらく、京極氏との関係を示す史料は残っていない。ところが天文十一年(1542)ごろ、京極高広の代に至って、京極氏と下坂氏の関係を示す文書が数多く出現してくる。このころ、浅井氏が台頭してきており、京極高広は浅井亮政との対戦を決意し、浅見新左衛門尉らの助けを得て、亮政との戦いをはじめる。下坂氏はこの戦いにあたり、高広から感状を受けている。
国人領主として乱世を生きる
その後、浅井亮政が死去し、子の久政が浅井家を継いだ。これを好機とみて、京極高広は下坂氏を味方に誘うのである。しかし、高広に誘われた下坂四郎三郎は浅井氏とも物のやり取りをしているのである。おそらく、四郎三郎は京極家よりも浅井家に対して親近感を感じていたようである。一方、下坂左馬助は京極高広から多くの書状を受けており、高広の軍事行動に同調することも多かった。下坂氏のなかでも左馬助は京極高広の軍勢の一角を構成する緊密な主従関係を形成していたようだ。
しかし、下坂左馬助は天文二十一年(1552)ごろ浅井久政とも書状のやりとりがあった。それは、京極高広が浅井久政と手を組んで六角義賢を攻撃していたからである。下坂氏は京極氏との主従関係を保ちながら、浅井氏との関係ももっていた。おそらくこれが、戦国時代の北近江の国人領主の一般的な姿であったのだろう。
元亀三年(1572)五月、下坂四郎三郎は浅井長政から、所領を安堵するむねの書状を与えられている。その書状に、浅井氏が下坂氏の忠節を謝すという文言が認められ、下坂四郎三郎は長政時代の浅井氏の指揮下に加わっており、下坂荘の一元領主権も認められていたことが知られる。
その後、天正元年の織田信長と浅井長政の決戦のときには、下坂氏も古谷篭城に加わっていた。小谷篭城時に浅井氏から御書を下され、山崎丸から取り入って合戦に加わり、1000石加増された。しかし、これは浅井氏の敗戦により実現はされなかった。
下坂氏は国人領主として、京極高氏のころから京極氏と主従の関係を結んでいたが、それは強いものではなく、あくまで国人領主として在地を離れることなく、合戦時に参陣する程度のものであった。基本的に自立性を保持していた。そして、戦国時代には京極高広からも浅井氏からも誘われ、下坂氏のなかではそれぞれに心を動かす人物も出て、所領の給与や安堵を受けていた。そして浅井氏の時代になって、下坂氏の家に領主的支配権が一元的に集中することになった。下坂氏の領主権は強いものであったようで、近世になっても下坂氏が在所を離れなかった理由はそこにあったようだ。
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下坂氏は南北朝の争乱期に足利氏に属し、代々下坂庄の地頭職に任じられていた。城址にはいまも子孫の方が住まわれ、往時を偲ばせる佇まいを残している。また、城址の西側には下坂氏の菩提寺「不断光院」があり、藁葺きの質素な造りが歴史の歳月を感じさせる寺院だ。「不断光院」の墓地には「隅立四つ目結」を刻んだ古い墓石が散見でき、下坂氏の歴史、由緒を伝えている。城址は林や竹やぶで囲まれ、屋敷のまわりには土塁、堀が残され、滋賀県下屈指の平地城館として貴重なものである。
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江戸時代に至ると下坂氏は郷士となり、子孫はいまなお連綿と続き、屋敷も昔のままに下坂城の広大な輪郭と遺構を残しているのである。(2007年2月当時)
【参考資料:近江坂田郡誌/長浜市史/田中政三氏:近江源氏 ほか】
■参考略系図
・長浜市史/近江坂田郡誌から作成。
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