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龍造寺氏の属将たち
・鍋島氏/犬塚氏/成富氏/横岳氏/小河氏/西郷氏
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鍋島氏
鍋島氏ははじめ、千葉氏に属したが、のち竜造寺氏に従い、佐賀郡本庄村を本貫とした。清久・清房の頃からその名が見え、竜造寺家純の女(隆信の母)が清房に再嫁したことによって、清房の子直茂と隆信は義兄弟となった。鍋島氏はこうした血縁関係を通じて、竜造寺氏の有力な譜代家臣となった。
特に、元亀元年(1570)、大友氏の肥前侵攻に対して直茂は「今山合戦」において、大友氏の大軍を撃退してから、
竜造寺氏家中で鍋島氏の地位は不動のものとなり、その後の竜造寺氏の陣立構成は直茂が先陣をつとめるようになった。
犬塚氏
天文年間(1532〜54)、小弐氏に仕えていた家重は、小弐氏と竜造寺氏が敵対するようになると、これに反対の態度をとった。そして、のちに竜造寺氏隆信が勢力を拡大してくると、東西犬塚氏ともに隆信の部将となり、ともに竜造寺氏十九城将の一となった。しかし、永禄に至り、家重の孫(子とも)尚重は同族の崎村城主鎮直を誘殺し、尚重も自刃した。
隆信は尚重の子を養って信尚と名付け、のちに茂続と改めさせた。そして、父鎮直の忠死を憐れんで、旧領を信尚に安堵している。さらに、信尚はのちに竜造寺姓を与えられた。
成富氏
成富氏は江上氏の氏族で、大蔵氏の一族である。江上種成は筑後国から肥前国神埼郡田手の吉ケ里に来住し、その孫にあたる良種入道西良が初めて成富氏を称したという。良種四世の孫種秀は竜造寺氏に仕えた。
信種は竜造寺隆信に親近し、今山の陣以降戦功が多かった。信種の長男久蔵は戦死していたことから、二男の賢種が家督を継ぎ、物成千七百石と佐嘉領初期の大身となった。のちに隆信の一字を賜って新九郎信安と称した。信安は十一歳のとき今山の陣出陣を願ったが幼少のため許されなかった。しかし、父の跡を追って陣所に行き敵味方の行動を見物して隆信に褒められ小姓に取り立てられた。
横岳氏
横岳氏は少弐氏の一族で代々少弐氏に仕えた。戦国期、横岳資誠の孫頼貞のとき、少弐氏が滅亡したため後は大友氏に属した。そして、竜造寺隆信の度々の攻撃に対して城を堅く守って、遂に龍造寺氏の攻撃に陥ることはなかった。しかし、一族の下野守頼続や坊所尾張守らの執り成しにより、ついに竜造寺隆信と講和し城を開けた。
天正九年(1571)、竜造寺氏より「家」の字を与えられて家実と改め、同十一年には高来郡深江城の加番を命じられ、同年六月、戦功があって竜造寺政家より感状および恩地を与えられている。
小河氏
小河氏は肥後国守護菊池氏の分かれで、菊池為安の子為純が筑後国山門郡上小河下永河を知行し、小河に住して小河を称したことに始まる。
為純の子信安は竜造寺氏の忠臣として知られる。初め武純と称し、のちに信安と改めた。信安は竜造寺隆信が妻室と睦まじくないことを憂い、一日夫人を訊ねて、諌め遂にこれを直した。また、神代勝利と隆信の和もとりもった。さらに、永禄元年(1558)、春日山の古城を修理して山内攻めの拠点ともしている。
その後、信安は勝利との戦いで戦死し、隆信は弟にその跡を継がせた。これが小河信友で、のちの信俊である。その後、信俊は天正十二年(1585)の島原合戦において戦死した。
西郷氏
西郷氏は、鎌倉時代後期から肥前国、伊佐早(諌早)荘南部および島原半島の高来郡西郷一帯にかけて勢力を振るった。戦国初期の文明年間(1469〜87)西郷石見守尚善が伊佐早次郎入道を討って、諌早の地に進出している。
西郷純尚のとき、龍造寺隆信に攻められようとした。このとき、純尚は有馬氏に救援を求めようとしたが、子の純賢は自ら隆信に請うて父純尚の危機を救い、天正五年十月、起請文を龍造寺氏に差し出した。また、隆信と和を講じた信尚は隆信から婿に契約されて一字を賜って信尚を改名した。純賢はのちに、肥前深堀城主の跡を相続した。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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