横岳氏
寄懸り目結
(藤原氏流少弐氏支流)
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室町期から戦国時代にかけて、筑前守護は少弐氏であった。少弐氏は鎌倉時代のはじめ、武藤氏が大宰少弐の職を世襲することになり、ついにはその官職名を苗字とするようになった。そもそも少弐氏は藤原秀郷の後裔といわれている。
南北朝時代には、貞経がはじめ後醍醐天皇方についていたがのち足利尊氏方に転じ、子頼尚も幕府方として活躍し、勢いを伸ばした。しかし、室町時代になると探題の支援を得た大内氏の勢力が北九州にまで伸びてくるようになり、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。そして、大内・少弐両氏の争いは繰り返され、次第に大内氏の攻勢に押されがちとなった。
少弐氏は領国に守護代を配置し、さらに郡代をおいて領国支配にあたっていた。肥前国の三根郡代は、政資の時代、文明十七年(1485)当時、加賀氏伴であった。そして、氏伴のあとに三根郡代となったのは横岳資貞であった。横岳氏は政資のあと、資元・冬尚当時もその地位を継承している。
少弐一族、横岳氏
横岳氏は少弐氏の支流で、少弐貞頼の二男頼房が文安元年(1444)十二月、少弐家の名代として肥前国三根郡西島に居城して横岳を称したことに始まる。
明応六年(1497)、少弐政資・高経父子が大内氏との合戦で討死すると、政資の末子資元が少弐氏の家督を継いだ。彼は、三根郡代の横岳資貞や、出雲・朝日氏の支えでと、大友親治の援を受けるなどして、失地回復の戦いを起こしたが、足利将軍の調停で、少弐氏と大内氏の抗争は止んだ。
その後、享禄元年(1528)資元の子冬尚が家督に立ち、肥前国神埼郡の勢福寺城に拠り、資元は太宰府に帰った。こうした少弐氏の動きをみた大内義隆は、亨禄三年三月、将軍足利義晴から少弐追討の命をとりつけ、資元・冬尚父子追討の軍を起こした。資元は冬尚の篭る勢福寺城に逃れたが、大内軍はこれを追い、大軍をもって肥前東部の養父・神埼郡に侵入した。この状況をみた少弐氏の一族、筑紫尚門・朝日頼貫、そして横岳資貞、千葉胤勝らは大内軍に雪崩をうって寝返った。
このとき、龍造寺家兼が一族を集めて大内軍に対抗しようとした。これをみた少弐氏一族の馬場頼周・頼員父子、筑紫惟門・横岳資誠・出雲頼通・本告頼景・江上興種ら、肥前の神埼・佐賀両郡の者が加わり、勢福寺城に迫ろうとする大内軍を、神埼郡田手で破った。資誠は少弐資元の一字を賜り、少弐冬尚の娘を室としていた。
大内氏との合戦における勝利によって、龍造寺氏の名は高まった。ところが、少弐氏は龍造寺氏を疎むようになり、ついには謀り事を弄して、天文十三年(1544)龍造寺氏一族を討ち果たした。壊滅した龍造寺氏は、胤信が継ぎ大内義隆の偏諱を受けて隆胤、次いで隆信と名乗った。そして、この隆信が龍造寺氏の再興を果たし、やがて戦国大名化してゆくことになる。
衰退する少弐宗家を支える
一方、龍造寺氏と袂を分かった少弐氏は、勢福寺城に拠り、勢を挽回することができた。 天文二十年(1551)大内義隆の横死によって大内氏は滅亡。これによって北九州に強い影響力を振るった大内氏の勢力は一掃された。翌年、土橋栄益は龍造寺隆信を佐賀から筑後に追った。しかし、隆信は蒲池鑑盛・小河武純に擁せられて佐賀に帰り、栄益を討った。龍造寺氏はこのような内紛がみられたものの、隆信を中心に着々とその支配体制を固めた。
少弐冬尚は、大友氏に好を通じ、自らは勢福寺城に、弟の政興を綾部城に配し、三根・養父・神埼三郡の馬場・横岳・筑紫・本告・朝日・出雲氏らの一族・譜代の家臣に擁せられ、有馬仙岩・千葉胤頼等と体制の挽回を計った。しかし、これは結局龍造寺氏との対立抗争を決定的にするものであった。そして、永禄元年(1558)十一月、隆信は冬尚が篭る勢福寺城を包囲し、翌年正月、冬尚を降して自害させた。ここに、少弐氏は滅亡した。
資誠の孫頼貞は、少弐氏に仕えていたが、少弐氏の滅亡後は大友氏に属した。竜造寺隆信の度々の攻撃に対して城を堅く守って、遂に龍造寺氏の攻撃に陥ることはなかった。しかし、一族の下野守頼続や坊所尾張守らの執り成しにより、ついに竜造寺隆信と講和し城を開けた。
天正九年(1571)、竜造寺氏より「家」の字を与えられて家実と改め、同十一年には高来郡深江城の加番を命じられ、同年六月、戦功があって竜造政家より感状および恩地を与えられている。
■参考略系図
・「佐賀県立図書館」蔵書から。
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