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北条氏政
●天文七年(1538)〜天正十八年(1590)
●小田原北条氏第四代。小田原城主氏康の子。上杉謙信・佐竹義重らとしのぎをけずり、天正七年、徳川家康と和睦。武田勝頼を駿河で挟撃。天正十年氏直に家督を譲る。小田原の役の責めを負い、天正十八年自刃。

真田昌幸
●天文十六年(1547)〜慶長十六年(1611)
●信濃上田城主。はじめ武藤氏を継ぎ、のち旧姓真田氏に復し、上田城主に。北条氏の上野沼田城を攻略、沼田領を支配。関ヶ原合戦では西軍に従い、秀忠軍を上田城に釘付けして関ヶ原合戦に遅れさせた。敗戦後、二男幸村とともに高野山に蟄居。

武田信玄
●大永元年(1521)〜天正元年(1573)
●甲斐国守護。大膳大夫.信濃守。幼名太郎、諱は晴信。武田信虎の長男。三条公頼の女を娶る。永禄二年入道して信玄となる。元亀三年西上の途につき。三方ケ原で家康軍を撃破、翌年四月駒場にて病死。

上杉景勝
●弘治元年(1555)〜元和九年(1623)
●長尾政景の次男で謙信の養子。剛直律儀な武将であった。豊臣秀吉に属して朝鮮の役にも出陣。五大老のひとりに抜擢され、会津120万石を領す。慶長五年、家康を討つために挙兵したが関ヶ原敗戦のため家康に降伏した。

豊臣秀吉
●天文六年(1537)〜慶長三年(1598)
●武家としてはじめて関白に任官した。本能寺の変後に柴田勝家・島津義久・徳川家康など対立武将や戦国大名を屈服させて天下統一した。六歳の秀頼を遺して他界したため、豊臣家は衰亡の一途を辿り、大坂夏の陣で滅亡した。

池田恒興
●天文五年(1536)〜天正十二年(1584)
●織田信長の家臣。のち豊臣秀吉に与力。池田恒利の子で、母は信長の乳母をつとめた。信長の時に伊丹城主。秀吉により大垣城主を命じられ、長男元助は岐阜城主となった。小牧長久手の戦役で戦死。

浅井長政
●天文十四年(1545)〜天正三年(1575)
●近江小谷城主久政の子。十六歳で浅井氏を継ぐ。信長の妹お市の方と結婚して、友好を保ったが、同盟の朝倉氏との義理を重んじて信長に反抗。朝倉氏とともに戦った姉川の合戦に敗れ、天正三年、小谷洛城に際し二十九歳で自刃した。

朝倉義景
●天文二年(1533)〜天正元年(1573)
●越前朝倉氏最後の当主。四代孝景の子。足利義昭を一乗谷に迎え歓待した。しかし上洛の意思がなく、義昭は織田信長のもとに去る。その後四年にわたる信長との争乱の末に滅亡した。姉川の合戦では家康軍に大敗。

毛利輝元
●天文二年(1553)〜寛永二年(1625)
●父隆元の急死により十一歳で家督を継ぎ、祖父元就・叔父吉川元春・小早川隆景の後見を受けた。永禄八年尼子義久を降した。天正五年以降、秀吉と各地で戦ったがのちに服属。五大老の一となる。関ヶ原の役では西軍の盟主となったが敗戦。

島津義弘
●天文四年(1535)〜元和五年(1619)
●島津貴久の二男。入道して維新と号した。永禄の頃より長兄義久とともに日向飫肥の伊東氏攻撃をはじめ、九州一円に兵を動かす。天正十五年、秀吉九州征伐に遭い、抗し得ず降伏。慶長五年兄義久から家督を譲られ、鹿児島城主となる。関ヶ原の役での撤退戦は有名。

石田三成
●永禄三年(1560)〜慶長五年(1600)
●十四、五歳の時、その才を認められ秀吉に召し抱えられた。軍事よりも事務的才能を買われて栄達の道を歩んだ。五奉行の筆頭となり、佐和山23万石を領す。秀吉死後、遺族の淀殿・秀頼母子のために家康と関ヶ原の役で戦って敗れ、斬首された。



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