赤松氏



家紋アイコン 播磨の戦国大名列伝



置塩赤松氏

 嘉吉元年(1441)播磨守護安赤松満祐は城山城に拠って、細川および山名ら幕府軍を迎えて、城は落城、その身は自害して果てた。ここに、赤松宗家は滅び、赤松氏も衰退してしまった。
 その後、遺臣は満祐の弟義雅の孫政則を取り立てて、赤松氏再興を願い出、許されて旧勢力を取り戻すことができたのである。しかし、戦国大名としての基礎を固める間もなく、政則は四十二歳で死去。その養子晴政は家臣の浦上氏に殺害されるなど、下剋上にさらされた。
 義祐のとき、家臣・浦上氏と不和になり信長に通じたが、永禄十二年、浦上宗景と戦って没落。次いで子の則房が秀吉に従って、播磨置塩一万石を安堵され、四国征伐にも従軍した。しかし、その子則英は関ヶ原の戦いに西軍に属し、佐和山城に籠城したが落城、逃れて京都で自殺した。


龍野赤松氏

 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松宗家は滅び、赤松氏も衰退してしまった。その後、赤松旧臣は、吉野の後南朝の皇子を殺害して天皇の三種の神器を奪還した功績により、赤松家の再興に成功。当主は満祐の弟の孫に当たる赤松政則であった。
 その後の赤松家は政則の養子義村が置塩城を守り、もう一人の子村秀が竜野城を守った.この頃、播磨守護職赤松家の守護代であった浦上家は、下剋上の波にのって主家をしのぐ勢いをしめしていた。村秀の子政秀は勢力挽回の打開策として、室山城の浦上政宗を暗殺し、浦上氏の勢力の駆逐を図った。
 広秀のとき、中国征伐で攻めてきた羽柴秀吉に降伏して城を明け渡した。のち、蜂須賀氏の麾下に入り、但馬国竹田城主となり二万二千石を領した.しかし、関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、最終的には切腹改易となり龍野赤松氏は滅亡した。


別所氏

 別所氏は赤松氏の支族で、赤松則村の弟円光の子敦光が別所五郎を称したのに始まるとされる。宗家赤松氏が戦国時代に衰退してゆくのに代わって次第に勢力を伸ばし、東播磨八郡を領し、三木城を守っていた。
 別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。しかし、その後長治は毛利方となり、秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。


佐用赤松氏

 佐用氏の祖は則景の弟頼景で、佐用郡佐用村西山城を築き、そこに拠ったことから佐用を称するようになったと伝える。作用氏のなかで最も有名なのが元弘の乱で活躍した佐用兵庫助範家であろう。
 戦国時代、赤松宗家より政元を養子に迎え、政元は上月城主となった。その子政範の代に織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。天正五年十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に政範らの拠る上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は兵三千で来援させた。
 秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、上月城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。


宇野氏

 戦国時代に播磨の長水山城に拠った宇野氏は、村上源氏の後裔と称し、山田入道頼範の子将則(頼則の弟という説もある)を祖とする。播磨国作用郡宇野荘に館を造り、その地名を名字としたのに始まる。
 越前守祐秀は、守護の赤松政則に従い、京都の洛北船岡合戦に戦功を立て、その領地は「宍粟郡・神西郡並びに但馬国八東・七美(ママ)・朝来五郡で高十二万石也」とある。
 天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。そして、蜂須賀小六らの兵を残して三木氏攻略のために姫路に引き返している。籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。


■赤松氏嫡流系図
小寺氏

 初代頼季は、護良親王の熊野落ちに勇名をはせた小寺相模である。その子藤兵衛景治は、建武四年の山城八幡の戦いで恩智某と戦って戦死しており、「太平記」にもその名が見えている。
 戦国時代、則職の子政職の代には、赤松義村と浦上村宗との対立があり、政職は義村に背いた浦上政宗を三石城に攻め、その追い落としに功があった。その後、毛利・織田の対立へと時代は移り変わり、政職は最初織田に与したが、のち毛利氏に与したことから、豊臣秀吉と対抗して敗れ、備後の鞆に落ちていった。
 これよりさき、則職は黒田重隆の子を養子として職隆と名乗らせた。職隆の子が秀吉の軍師として竹中半兵衛と並び称された如水孝高である。


三木氏

 播磨国の二大名門とされるのが播磨守護赤松氏と英賀城主三木氏。英賀城主の初代通近は、伊予の名族、河野氏の通堯の子といわれる。三代通重は赤松一族の別所氏から養子に入り、赤松満祐の女を室とした。嘉吉の乱に際しては、赤松方の部将として、子通武とともに幕府軍の攻撃を防戦した。
 戦国時代、本願寺光佐上人を助けて織田軍と戦った。秀吉の三木城攻めには、別所長治の拠る三木城に援軍と糧米を送って別所勢に加勢している。三木城の落城後、秀吉は英賀攻めに取りかかった。城兵奮戦のかいもなく、城は落城、城主三木通秋とその子安明は城を脱して九州へと落ちのびた。



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