武家の家紋の発生
武士において、家紋は戦功を認知させるものとして広まった。

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家紋の発生武家の家紋の普及家紋が名字の代名詞となる合戦の目印から太平期の家紋へ



家紋が名字の代名詞となる

 かくして、鎌倉時代の末期になると、天下諸国の豪族はいずれも家紋を用いるようになった。南北朝時代には、全国諸豪の家紋はすでに世間に知れわたり、家紋はあたかも名字の代名詞のごとくに用いられたので、当時の軍記として名高い『太平記』の中には、武士の軍事的行動の描写にこれを用いている。 例えば『太平記』十六巻兵庫海陸寄手事の条に、
「須磨ノ上野ト鹿松岡鵯越ノ方ヨリ、二引両・四目結・直違・左巴倚カカリノ輪違ノ旗、五六百流差連テ、雲霞ノ如ク寄懸タリ」 とある。


 二引両は足利氏、四目結は近江源氏佐々木氏、直違は備前の松田氏、左巴は宇都宮氏、倚カカリノ輪違は高氏を指している。このように『太平記』には、姓氏を書かずに旗紋を記述するところが多く見られる。
 皇室の紋章として権威のある菊桐紋は、鎌倉時代の初期から用いられていたが、そのころは衣服や器材だけに描かれ、公の場合に用いられる旗は、日月の紋を用いていた。しかし、南北朝のころになると、すでに菊桐を皇室の紋章として用い、有功の将士には、時としてこの紋章が与えられた。
 このように、南北朝時代には、公武とも紋章はその家を表示する重要なものとなり、また、これを与えて有功の将士に報いたりしたため、紋章は自然と権威を持つようになってきた。したがって紋章のついた旗や幕に対しても敬意を払うような儀礼すら生まれてきたのである。今川了俊の『大草子』の中で、「旗差の心得」についての条に、一番に御紋の御旗、二番に白旗、三番に錦の御旗を御身辺に差し、そしてこれらの旗差は、いずれも優秀な兵士を選ぶ必要があると述べ、幕を出入りするときも、家紋の描かれたところは避けなければならないと戒めている。
 元来、家紋は名字の目印として、同族の間では同じ紋章を用いていたが、南北朝から足利氏の時代になって、一門が相分かれて交戦するようになってきたので、同族間でも紋章を区別して混同しないようにしたので、紋章はこの時代から次第に種類を増していった。例えば、明徳の役(1391)で、山名氏一門が戦ったとき、紋章の混同を防ぐために竹葉を旗につけて区別したのであるが、後に山名氏はこれを家紋とすつようになった。後世、同族の間でしばしば異種の紋章を用いているが、これは以上のような理由に基づいている。
 室町時代の中期になると、家紋は軍事上ますます必要になり、『太平記』以後、室町時代に書かれた戦記物、例えば『文正記』『大党軍記』『鎌倉大草紙』『羽継原合戦記』『塵添アイ嚢鈔』などは、いずれも諸将士の紋章を記してある。なかでも僧行誉が著した『塵添アイ嚢鈔』には、「そもそも幕紋の事際限あるべからず」として、次のような幕紋の名称を掲げている。
 「木瓜、輪違、瓜紋、三つ鱗、四つ目結、洲浜、巴、角巴、杏葉、中黒、しゅろ丸、裾濃、引両筋、菱、松皮菱、輪子、傍折敷、唐傘、帆掛船、酢漿草、亀甲」などである。



 その後、永正年間(1504〜1521)に初めての家紋集が出る。これを『見聞諸家紋』、別名『永正紋尽』とか『足利幕紋』という。これは、足利幕府の役人が自分で見聞した当時の諸家の家紋を列記したもので、図案と名字を示しており、その数は280を数え、ありし日の姿をとどめている。
 応仁・文明の乱(1467〜1477)が終わると、足利幕府の権威はまったく地に落ちて、幕府を中心に勢力をふるった守護大名が衰退し、新しく実力がものをいう戦国時代へ突入する。越後の上杉謙信は、永禄四年(1561)、関東を制服したとき、関東諸豪の家紋を集録した『関東幕注文』を作成した。これにより、下野・上野を中心として、武蔵・安房・上総・下総・常陸におよぶ251家の家紋を見ることができる。ほかに、三好長慶の『阿波国旗本幕紋控』は、阿波の諸将の家紋を控え書きしたものである。


合戦の目印から太平期の家紋へ

 川中島合戦、長篠合戦、賤ケ岳合戦、小牧長久手合戦、そして関ヶ原合戦と数々の合戦が続いた戦国時代も元和偃武をもって終わった。徳川家康が天下を取って、江戸幕府を開くと太平の世が訪れ、もはや武士は戦場を駆けることもなくなった。そして、幟旗・旗指物・馬印などは無用となったが、家紋は儀礼的な面で重用されることになる。参勤交代が実施され、大名の道中や登城の際の各家の識別は、もっぱら行列の先払の槍・長刀の飾鞘の形状や挟箱に描かれた家紋によって判断された。一方幕府は、登城してくる大名たちを見分けるために、下座見役を大手門に常置した。このように、家紋こそが大名の家格・家系を表わすシンボルとなった。
 江戸幕府は、室町幕府の服制を採用し束帯以外の礼服に家紋をつけることを規定した。とくに五位の官位用の「大紋」という礼服には、大小の家紋が九ケ所もついている。大名や旗本が正式に幕府に届け出た家紋を定紋という。これが表紋で本紋または正紋などとも称している。したがって参勤交代や登城・儀式のとき用いなければならない。この定紋に対して、非公式の場合に使う紋が裏紋である。替紋・別紋・控紋とも称される。
 このように鎌倉時代に発生した武家の家紋は、南北朝、室町、戦国時代と合戦における実用的目印をzへて、江戸時代には儀式にかかせないものとして定着していった。
【日本家紋由来総覧/1997発行(楡井範正氏論文から)】

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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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