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武家の家紋の発生
武士において、家紋は戦功を認知させるものとして広まった。 |
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家紋の発生 公家にはじまった家紋は源氏・平家の白旗と赤旗の時代を経て、急速に武士の間に普及してゆく。すなわち、鎌倉時代以降の武士は戦場において、敵と対決し自己の存在を顕示するために、旗印に家紋をつけた。さらに、南北朝時代・室町時代のあと、群雄割拠の戦国時代には、陣幕・旗指物・幟・馬印などに家紋がつけられ、遠距離からも彼我の区別ができるようになった。 源・平の旗について『平治物語』待賢門戦の条に 「平家は赤はた赤しりし、日にえいじてかがやけり、源氏の大はたをしなべて白かりけるが、風に吹きみだされ、いさみすすめる有さまは、誠にすざまじくこそ覚えけれ」 とある。 また、『平家物語』筑摩川合戦の条に 「本堂の前にも、にはかに赤旗をつくりて鈴とり付、ほしな党三百騎引ぐしてかけ出る(中略)光盛こえはてねば赤旗かなぐり捨、白旗をさとあげて申ける」 と見える。 このように、源・平二氏は、当時、白・赤の旗で、その党派の目印としたことがわかる。 武家の勢力の対立が単純な源平時代には、まだ、家紋は必要ではなかった。いずれも無地の源氏の白旗、平家の赤旗の二色ですんだ。上古以来の朝廷の軍の旗が赤色であったことから、平氏がその伝統を先取りして赤旗を用いたものであり、源氏はその対抗上、白旗を用いたものと考えられる。
今日でもそうであるように、赤色は士気を鼓舞する色、それに対して白色は純粋無垢。清浄神明の色で、神の宿る色、神の加護を期待し得る色とした形跡がある。後には、白地に天照皇大神あるいは八幡大菩薩など神号を黒く書き、あるいは染め付けた旗が現われるが、稲荷神に捧げる旗を除いては白地にしるされた。後には、一族あるいは、一家にひとつの紋章の習俗が定着するが、源平抗争のころは、本氏が源氏あるいは平氏であるなしに関わらず、源氏方の軍勢は白旗をかかげて参戦した。しかし、文治元年(1185)、平家一門が西海に滅んだとき、源頼朝は、白旗を源氏嫡流の旗として、余人の使用を許さなくなった。 平家滅亡後五年目の文治五年八月、源頼朝が藤原泰衝征伐のため奥州に軍を進めた。下野国宇都宮を通過の際、常陸国から馳せ参じた源氏の一族佐竹隆義が、無文の白旗を掲げているのを見とがめ白旗の使用を禁じた。このとき、頼朝は隆義に、月を描いた扇を与えて、この文様を旗につけるよう命じたと『吾妻鏡』は伝えている。 武家の家紋の普及 天下が源氏の白旗で統一されたあと、奥羽の役、承久の乱、文永・弘安の役などが相次いで起こった。また、全国各地に配された守護・地頭の武士たちの旗や幔幕に識別の必要性が高まってきた。家紋つきの旗印の最も早い例として、武蔵七党の児玉党が党の集団標識として、「団扇」を用いている。ほかに、畠山氏の「村濃」、熊谷氏の「鳩に寓生」、佐々木氏の「三つ目結」などが知られている。
旗紋と平行して、幔幕に紋がつけられた。新田氏の「大中黒」、足利氏の「二つ引両」、三浦氏の「三つ引両」などが幕紋から起こっている。
『吾妻鏡』寛喜二年(1230)二月三日の条によると、真夜中、鎌倉が騒動し旗を持った御家人が、執権北条泰時邸に集まった。そして、泰時がこれを諭して旗をあずかり、翌日その旗を紋に照らして、いちいち持ち主に返したとある。これによって、当時の鎌倉武士が一般に家紋を用いていたことがわかる。『蒙古襲来絵詞』は、文永・弘安の役に活躍した肥後の武士、竹崎季長の戦功を描いた絵巻物で、当時の風俗、武具、旗印、家紋などが、ありし日の姿のままに見られる重要な資料である。この中に、従軍した九州の豪族たちが、それぞれの旗に家紋、三つ目結に吉文字 (竹崎五郎兵衛季長)、四つ目結(大宰少弐三郎左衛門尉景資)、鶴亀松竹梅(白石六郎通泰)、二枚並び鷹の羽(菊池次郎武房)、五七の桐(大矢野十郎種保)、鶴丸に十文字(島津下野守久親)をかかげて異国の敵に立ち向かっている。そのことは、鎌倉時代の中期にいたって、西国武士も家紋を用いていたということがわかる。
この絵巻で興味深いのは、蒙古軍もまた、朱色の地に白い円形を染め抜いたペナント形の旗、四角の朱の地に金色の円形を染め、緑色の縁どりの周辺に、さらに朱色の火焔形をつけた旗などをかかげていることである。盾にも、卍形・三つ巴・唐草・雲形など、さまざまな紋章を描いている。敵のこれらの紋章をも、季長が絵師に指示して描かせたとすれば、死をかけた危急の間にも、敵軍の装備の紋章を目撃して銘記することも、武士のたしなみの一つだったのであろう。
竹崎季長はこの戦役に、わずか五騎で従軍したのであって、軍旗を持つ下級武士を当時「旗指」と称し、三郎資安が騎馬によって担当していたが、緒戦において早くも乗馬を敵に射倒されてしまったので、やむなく徒歩で旗指の任務を遂行した。当時の戦場には、幕府派遣の「軍奉行」が参加していて、同一戦場で戦う武士を相互の証人として、戦後の論功行賞に利用した。ここに、武家社会の紋章の大きな効用と意義が考察される。家紋が名字の代名詞となる かくして、鎌倉時代の末期になると、天下諸国の豪族はいずれも家紋を用いるようになった。南北朝時代には、全国諸豪の家紋はすでに世間に知れわたり、家紋はあたかも名字の代名詞のごとくに用いられたので、当時の軍記として名高い『太平記』の中には、武士の軍事的行動の描写にこれを用いている。例えば『太平記』十六巻兵庫海陸寄手事の条に、 「須磨ノ上野ト鹿松岡鵯越ノ方ヨリ、二引両・四目結・直違・左巴倚カカリノ輪違ノ旗、五六百流差連テ、雲霞ノ如ク寄懸タリ」 とある。
二引両は足利氏、四目結は近江源氏佐々木氏、直違は備前の松田氏、左巴は宇都宮氏、倚カカリノ輪違は高氏を指している。このように『太平記』には、姓氏を書かずに旗紋を記述するところが多く見られる。
皇室の紋章として権威のある菊桐紋は、鎌倉時代の初期から用いられていたが、そのころは衣服や器材だけに描かれ、公の場合に用いられる旗は、日月の紋を用いていた。しかし、南北朝のころになると、すでに菊桐を皇室の紋章として用い、有功の将士には、時としてこの紋章が与えられた。このように、南北朝時代には、公武とも紋章はその家を表示する重要なものとなり、また、これを与えて有功の将士に報いたりしたため、紋章は自然と権威を持つようになってきた。したがって紋章のついた旗や幕に対しても敬意を払うような儀礼すら生まれてきたのである。今川了俊の『大草子』の中で、「旗差の心得」についての条に、一番に御紋の御旗、二番に白旗、三番に錦の御旗を御身辺に差し、そしてこれらの旗差は、いずれも優秀な兵士を選ぶ必要があると述べ、幕を出入りするときも、家紋の描かれたところは避けなければならないと戒めている。 元来、家紋は名字の目印として、同族の間では同じ紋章を用いていたが、南北朝から足利氏の時代になって、一門が相分かれて交戦するようになってきたので、同族間でも紋章を区別して混同しないようにしたので、紋章はこの時代から次第に種類を増していった。例えば、明徳の役(1391)で、山名氏一門が戦ったとき、紋章の混同を防ぐために竹葉を旗につけて区別したのであるが、後に山名氏はこれを家紋とすつようになった。後世、同族の間でしばしば異種の紋章を用いているが、これは以上のような理由に基づいている。 室町時代の中期になると、家紋は軍事上ますます必要になり、『太平記』以後、室町時代に書かれた戦記物、例えば『文正記』『大党軍記』『鎌倉大草紙』『羽継原合戦記』『塵添アイ嚢鈔』などは、いずれも諸将士の紋章を記してある。なかでも僧行誉が著した『塵添アイ嚢鈔』には、「そもそも幕紋の事際限あるべからず」として、次のような幕紋の名称を掲げている。 「木瓜、輪違、瓜紋、三つ鱗、四つ目結、洲浜、巴、角巴、杏葉、中黒、しゅろ丸、裾濃、引両筋、菱、松皮菱、輪子、傍折敷、唐傘、帆掛船、酢漿草、亀甲」などである。
その後、永正年間(1504〜1521)に初めての家紋集が出る。これを『見聞諸家紋』、別名『永正紋尽』とか『足利幕紋』という。これは、足利幕府の役人が自分で見聞した当時の諸家の家紋を列記したもので、図案と名字を示しており、その数は280を数え、ありし日の姿をとどめている。応仁・文明の乱(1467〜1477)が終わると、足利幕府の権威はまったく地に落ちて、幕府を中心に勢力をふるった守護大名が衰退し、新しく実力がものをいう戦国時代へ突入する。越後の上杉謙信は、永禄四年(1561)、関東を制服したとき、関東諸豪の家紋を集録した『関東幕注文』を作成した。これにより、下野・上野を中心として、武蔵・安房・上総・下総・常陸におよぶ251家の家紋を見ることができる。ほかに、三好長慶の『阿波国旗本幕紋控』は、阿波の諸将の家紋を控え書きしたものである。 合戦の目印から太平期の家紋へ 川中島合戦、長篠合戦、賤ケ岳合戦、小牧長久手合戦、そして関ヶ原合戦と数々の合戦が続いた戦国時代も元和偃武をもって終わった。徳川家康が天下を取って、江戸幕府を開くと太平の世が訪れ、もはや武士は戦場を駆けることもなくなった。そして、幟旗・旗指物・馬印などは無用となったが、家紋は儀礼的な面で重用されることになる。参勤交代が実施され、大名の道中や登城の際の各家の識別は、もっぱら行列の先払の槍・長刀の飾鞘の形状や挟箱に描かれた家紋によって判断された。一方幕府は、登城してくる大名たちを見分けるために、下座見役を大手門に常置した。このように、家紋こそが大名の家格・家系を表わすシンボルとなった。 江戸幕府は、室町幕府の服制を採用し束帯以外の礼服に家紋をつけることを規定した。とくに五位の官位用の「大紋」という礼服には、大小の家紋が九ケ所もついている。大名や旗本が正式に幕府に届け出た家紋を定紋という。これが表紋で本紋または正紋などとも称している。したがって参勤交代や登城・儀式のとき用いなければならない。この定紋に対して、非公式の場合に使う紋が裏紋である。替紋・別紋・控紋とも称される。 このように鎌倉時代に発生した武家の家紋は、南北朝、室町、戦国時代と合戦における実用的目印をzへて、江戸時代には儀式にかかせないものとして定着していった。 【日本家紋由来総覧/1997発行(楡井範正氏論文から)】 |
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