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天文十四年(1545)浅井久政の長男として六角氏の居城観音寺城下で生まれた。幼名は猿夜叉丸、仮名は新九郎で、受領は備前守を称した。
浅井氏は亮政の代に江北の覇者となったが、久政の時代になると六角氏に押されてその下風に立つようになった。
久政の室井口氏は人質として観音寺城下に暮らしていたようで、幼い長政も母とともに人質として過ごしたといわれる。
十五歳で元服すると六角義賢の一字をもらって賢政と名乗り、六角氏の重臣平井定武の娘との結婚を強いられた。
不遇の時代をかこつ浅井氏にあって、亮政時代に活躍した武将たちは冷や飯を食わされ、その多くが弱腰外交に
終始する久政に不満を抱いていた。幼い頃より智勇の片鱗をみせた猿夜叉丸はかれらの期待を集め、
幼い猿夜叉丸も浅井氏の自主独立を期していたようだ。
かくして永禄二年(1559)、六角に従うのを快しとしない赤尾・遠藤・安養寺氏らの浅井重臣らは、
賢政(長政)を戴き久政を隠居させるに至ったのであった。
江北の戦国大名に飛躍
浅井氏の家督となった賢政は長政と改め、平井氏の娘を離縁し、六角氏への対立姿勢を明確にした。これに対して
六角義賢は、浅井方の佐和山城を攻撃してきた。佐和山城将百々氏はよく防戦、一方の六角氏も定頼が死去して間もないこともあって、攻防は翌年にずれ込んでいった。この間、浅井方では今井定清を服属させ、六角氏との境目に位置する肥田城主高野瀬秀隆を味方に引き入れるなどの裏工作を行なっていた。
秀隆が浅井方に寝返ったことを知った義賢は激怒し、ただちに肥田城攻めの陣を起した。肥田城を囲んだ六角勢は、
水攻めを行なったが失敗、肥田城の南方に位置する野良田郷に布陣した。そこへ、高野瀬氏の救援に出陣してきた
浅井長政が押し寄せた。六角方は蒲生定秀・永原重興らを先陣として総勢二万五千の兵を擁し、一方の浅井勢は
一万一千という兵力であった。戦いは数に優る六角方の有利に展開したが、緒戦の勝利に油断した六角勢の隙を突いた
浅井勢の奮戦で結果は浅井方の勝利となった。のちに「野良田表の合戦」と呼ばれる戦いで、この初陣の勝利によって
浅井長政は一躍歴史の表舞台に登場したのである。
以後、長政はこれまで対等に近い存在であった磯野氏・垣見氏といった国人領主を家臣として掌握、また領国経営に意を注ぐなど戦国大名としての地歩を固めていった。一方、敗れた六角氏はといえば、美濃の斎藤氏と結んで長政包囲網を形成しようとした。六角氏に大勝したとはいえ、長政の前途はいまだ多難な様相を示していた。
ところが、永禄四年(1561)、斎藤義龍が病死して若年の龍興が斎藤氏を継いだことから六角氏の浅井挟撃策は
ならなかった。さらに、六角氏は将軍義輝、三好長慶らとも敵対関係となり、衰退の色合いを濃くしていった。
そのような情勢下の永禄六年(1563)、義賢の嫡男義弼(義治)が重臣の後藤但馬守父子を謀殺するという愚挙を犯したのである。この観音寺騒動によって永田・三上・池田・進藤・平井氏らが六角氏から離反、かれらは浅井長政に通じて六角氏に叛旗を翻したのであった。この好機を捉えた長政は観音寺城を攻撃、義賢は甲賀へ、義弼は蒲生へ落ち延び、六角氏の声望は地に堕ちてしまった。かくして、斎藤氏・六角氏の衰退という幸運にも恵まれた長政は、一躍、戦国大名へと成長したのであった。
………
浅井長政像
東京大学史料編纂所データベース
「史料編纂所所蔵肖像画模本DB」から転載
織田信長の登場
長政が強敵六角氏を打ち破った永禄三年、奇しくも尾張の織田信長は征西軍を率いた今川義元を桶狭間の合戦で
討ち取る勝利をえていた。信長は三河の松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶと、その矛先を美濃国斎藤氏攻めに向けた。
その戦略の一環として近江国江北をおさえる浅井長政に同盟をよびかけ、妹お市を嫁がせて美濃攻めを有利に
展開しようとした。信長との同盟は浅井家中で賛否両論となり、とくに重臣の遠藤直経が強硬に反対したという。
紛糾した背景には長政の祖父亮政は六角氏と戦って敗れると越前朝倉氏を頼り、その援助を得て江北の覇者に
上りつめたという歴史があった。ところが、朝倉氏と織田氏はともに斯波氏の被官同士で、はやくから敵対関係にあった。
長政は家臣の反対派を抑えて信長と同盟関係を結んだが、その条件に「朝倉への不戦の誓い」を加えたという。
永禄十年、美濃を攻略した信長は稲葉山城に本拠を移し、翌永禄十一年、越前から流浪してきた足利義昭を奉じて上洛の軍を起こした。
これに長政も参陣して、信長上洛を阻止しようとした六角氏攻めの先陣をつとめた。
上洛した信長は義昭が将軍に任じられると、諸国の大名らに新将軍義昭へ挨拶すべしと上洛を催促した。
越前の朝倉義景はかつて義昭を庇護したこともあり、再三再四にわたる信長の上洛催促を拒否しつづけた。
これに業を煮やした信長は、元亀元年(1570)、朝倉義景征伐の軍を起こすと破竹の進撃を続けた。一方、信長から
事前に連絡を受けていなかった浅井氏では、信長の盟約違反を怒って信長軍の背後を突くべしとの意見が大半をしめた。
対して、重臣の磯野員昌、遠藤直経らは反対の姿勢を示した、長政は逡巡したようだが、父久政をかつぐ同盟破棄派に
押されてついに信長軍を攻撃した。
長政裏切りの報を受けた信長は最初信じなかったという。そこまで長政を信じきっていたのか、将軍を奉じるみずからの力に驕って長政を見下していたのか、戦国武将としては驚くべき失態であった。ともあれ、命からがら京都に逃げ帰った信長は、態勢の立て直しを図り、六月江北に陣を進めた。一方の長政は朝倉氏との同盟を強化する一方で、甲斐の武田信玄、三好三人衆らと結び、さらに本願寺と宥和するなど反信長作戦を展開した。さらに、横山城に大野木茂俊、佐和山城に磯野員昌を入れ、美濃国境に位置する長比城・刈安尾城に堀氏をいれて信長軍の進撃に備えた。
かくして長政は、江北に進攻してきた信長・徳川連合軍を、朝倉軍と連合して姉川で対峙した。
双方の軍勢は織田方が三万四千、浅井方が一万三千といわれ、数の上では浅井方が劣勢であった。さらに、
友軍である朝倉軍は義景に代わって朝倉景健が率いたもので、義景には乾坤一擲の決戦を行なう気概はなかった
というしかない。
合戦の火蓋が切られると、浅井軍の先鋒磯野員昌は十五段に連ねた織田軍の備えを十三段まで打ち破り信長の本陣に迫る勢いをみせた。しかし、
友軍の朝倉勢が徳川勢に敗れたことで戦いは浅井・朝倉連合軍の敗戦となり、遠藤直経・浅井雅楽助らの勇将が討死した。
長政は小谷城へ、磯野員昌は佐和山城に敗走、朝倉勢は越前へと遁走した。勝利した織田・徳川連合軍の被害も大きく、
信長は浅井勢が敗走した横山城に羽柴秀吉を入れると、小谷城の力攻めはせず美濃に帰国した。以後、秀吉が織田方の
最前線を担い、浅井氏との対峙を続けることになった。
遠藤直経戦死の地、後方は信長が本陣を置いた竜ヶ鼻砦
信長との抗争、浅井氏の滅亡
やがて、信長の専横を嫌った将軍義昭が反信長勢力の糾合を画策、武田信玄・石山本願寺らがこれに応じて
反信長行動を開始した。これに態勢を整えた長政・朝倉義景らも加わり、九月、長政は朝倉義景と結んで反撃を開始した。
浅井・朝倉連合軍には、湖北の一向一揆衆・六角承禎と旧家臣たち、さらに比叡山の僧兵たちが味方した。
近江坂本に兵を進めた長政らを迎え撃ったのは宇佐山城主森三左衛門、援軍として駆けつけた織田信冶、青地茂綱らであった。
浅井・朝倉連合軍は三万、対する宇佐山勢は二千余という寡勢であった。三左衛門は留守の兵三百ばかりを残すと、
九十九折れの道を下坂本に駆け下り、敢然と浅井・朝倉連合軍を迎え撃ったのである。三左衛門らは奮戦したものの
衆寡敵せず、信冶・茂綱らとともに討死した。勝ちに乗じた浅井・朝倉勢は宇佐山城を攻撃したが、
武藤兼友・各務元正が指揮する城兵は頑強に防戦、よく踏ん張り続けた。その後、摂津から駆けつけた信長は
下坂本に布陣して浅井・朝倉軍に対峙したが、戦局は膠着状態となり宇佐山城に本陣を移して浅井・朝倉方と睨み合いを
続けた。戦いが長期化することを嫌った信長は朝廷と幕府に働きかけて和睦を図り、ようやく十二月に和睦が成立した。
その間、比叡山は信長の要請を蹴って浅井・朝倉連合軍を支援し続けたことから、のちに信長の焼き討ちを被る結果を招いた。
信長の提案する和議に際して長政は徹底抗戦を主張したようだが、一方の朝倉義景は兵の疲労と雪で越前との交通が
遮断されることを恐れて和議に応じたのであった。この和議によって八方塞がりであった信長は一息つくことができ、
兵を北近江から美濃に帰すことができた。義景の弱腰に対して武田信玄は激怒し、最出兵をうながしたが義景は
それに応じることはなかった。長政にすれば自領における戦いであり、義景の腰が据わっていれば、
北近江戦線において信長の命運は尽きていたかも知れない。
また、近江から美濃に退却する織田軍に対して浅井勢だけでは追撃もできず、
優柔不断な義景と結んだことをシミジミと後悔したのではなかろうか。
浅井・朝倉連合と信長の和睦は間もなく破綻、信長軍の攻勢が展開された。元亀二年、佐和山城主磯野員昌が
信長に降伏、ついでさいかち浜の合戦に敗退した浅井氏の敗色は次第に色濃くなっていった。そのような九月、
比叡山が信長の焼き討ちで全滅、さらに領内は秀吉の霍乱戦法で荒廃、浅井氏は孤立化する一方であった。
元亀三年、盟友の武田信玄が上洛の軍を起こしたことで義昭・長政ら反信長陣営は活気づいたが、翌四年、頼みの信玄が
病死するという始末となった。加えて、信玄に呼応して挙兵した義昭が敗れて足利幕府は滅亡してしまった。
ここに至って長政は、ひとり朝倉義景を頼るばかりとなった。
天正元年、山本山城の阿閉氏らが織田方に降伏、ついで刀根の合戦に敗れた朝倉義景が滅亡。ついに長政は
孤立無援の状況に追い込まれた。越前から凱旋した信長は小谷城に総攻撃をかけ、秀吉の奇襲で京極丸が落ち
小丸に拠っていた父浅井久政が自刃した。最期を悟った長政はお市と娘らを小谷城から脱出させると、みずからは
自刃して浅井氏は滅亡した。享年二十九歳という若さであった。
森三左衛門尉が浅井・朝倉連合軍を迎え撃った宇佐山城の石垣址
・浅井亮政
・浅井久政
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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