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浅井 亮政
浅井三代の基礎を築いた不屈の武将   


 浅井三代の基礎を築いた亮政は、浅井氏の庶流直種の子で、男子のなかった浅井惣領某の娘婿となって浅井氏宗家の家督を継承した人物であった。
 亮政の妻は蔵屋といったが、父の名は明らかではない。ただ、明応十年(1501)に浅井直政という人物が本貫地である丁野郷の土地を寄進していること、名乗りの「政」の字が浅井三代に共通であることなどから亮政の岳父は直政であったと推定される。諸本ある浅井系図のうち比較的信頼がおけるという『東浅井郡誌』に掲載された系図をみると、 直政の叔父に直種がみえ、その二男として亮政が記されている。
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写真:浅井亮政像(徳勝寺蔵/『長浜城歴史博物館 開館25周年記念 特別展』広報資料より)

不屈の闘将

 大永三年(1523)、亮政が属する京極高清の跡目をめぐって内訌が起こった。高清の意を汲んで次男高慶(高吉)を 擁立する執権上坂信光の一派と、浅見貞則を盟主として長男高延(高広)を擁立する三田村・今井氏ら国人衆とに分裂 すると、亮政は浅見派に属して上坂信光らと対立した。 対立は武力衝突に発展、尾上城の戦いにおいて勝利した浅見派は京極高清・高慶父子を尾張国に逐った。かくして、 高延が京極家の家督を継いだが、今度は浅見貞則が専横を振るうようになった。
 亮政ら国人衆は上坂信光と和睦すると高清を迎えて浅見氏と対立、小谷城に拠った。この混乱のなかで国人一揆の 盟主となった亮政は京極家中における地歩を確立、着実に勢力を拡大していった。そして、大永四年、亮政は小谷城に おいて京極高清を饗応、みずからの力を江北国人衆に示した。以後、高清を傀儡として京極家中における実権を 掌握するのである。文字通り、亮政は下剋上の人物であった。いま、小谷城址に残る京極丸は、高清を迎えるために 築いた曲輪と伝えられている。
 この亮政の台頭は、京極氏の宗家にあたる江南の戦国大名六角定頼との対立へと進展した。六角氏は近江守護職に任じ、代々、観音寺城を拠点とする近江の最大勢力であった。定頼は管領細川氏の内訌に翻弄される足利将軍を援け、近江に保護するなど六角氏の全盛期を現出した実力者であった。亮政にとっては、まことに恐るべき大敵との対立となった。
 江北の動向を睨んでいた六角定頼は、大永五年、浅井を叩く好機到来とみて自ら軍勢を率いて出陣した。対する亮政は 越前の朝倉教景に援軍を求め、朝倉宗滴率いる朝倉勢が小谷城へ入った。宗滴は小谷城の一角に金吾丸を築くと、 六角氏と浅井氏の調停に努め、一旦、和議がなった。しかし、六角方の再攻撃に敗れた亮政は高清を擁して美濃へと脱出した。
 その後、亮政と高清は小谷城に復帰したが、享禄元年(1528)、上坂信光に擁された高慶が挙兵、これに 坂田郡の実力者今井秀信が味方して浅井郡に進攻した。亮政はこれを内保河原で迎え撃ち激戦となった。どうにか、 亮政が勝利を得たものの被害は大きく、打ち続く京極氏の内訌は六角定頼の江北への介入を許す要因となった。
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写真:小谷城址に残る京極丸の土塁と曲輪


江北の覇者となる

 享禄四年(1531)四月、後藤・進藤・三雲・蒲生氏らを将とする六角勢と箕浦河原で合戦、この戦いで亮政は三田村・浅井・中養寺らが討ち取られる敗戦を被った。しかし、六角方も多くの将兵を失ったために追撃がかなわず帰陣、亮政はかろうじて滅亡を免れえたのであった。
 その後も江北の情勢は目まぐるしく流動的で、天文四年二月、六角定頼が江北に侵攻、海津の戦いで亮政は敗戦を被った。ついで、天文七年(1538)六月鎌刃城の戦いで佐和山城を失い、ついで八月には太尾山城を攻略され、さらに九月には国友河原の戦いに敗れて亮政は小谷城に立て籠もった。ついには篭城に耐えられず小谷城を退散、江北は六角定頼の手に落ちた。まさに連戦連敗、亮政にとって伝統勢力六角氏の壁は厚かった。とはいえ、度重なる敗戦を被ったものの、亮政はよく江北の国人衆を掌握し、六角氏が帰陣すると旧力を回復、よく勢力を保った。
 ともあれ、亮政は六角定頼への従属姿勢を示しつつ、越前国の朝倉氏との友好関係を強化、江北にも教勢を伸張する 本願寺勢力とも宥和政策を推し進め、着実に江北の覇者へと成り上がっていった。天文三年(1534)には 京極氏の執権ともいうべき地位に在って北近江統治の主導権を掌握した。
 高清の没後は高延を擁立したが、亮政の勢力伸張を警戒した高延と不和になり、天文十年(1541)四月に至って決裂、 高延は六角氏を頼って亮政打倒の動きを見せるようになる。亮政にとっては油断のならない状況となった。 そのような情勢下の翌天正十一年(1542)正月、亮政は突然死してしまった。


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