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大永六年(1526)に亮政の長男として生まれた。幼名を猿夜叉といい、仮名は新九郎、受領は下野守を称した。
父亮政は正室(蔵屋)との間に一人の女子(鶴千代)しか生まれず、この鶴千代に浅井一族の田屋氏の男を婿にとり
「明政」と名乗らせ跡継ぎとした。ところが、その後に側室との間に久政が生まれたことで家督は久政が継ぐことに
なったのである。おもしろくない明政は京極高延と結んで久政と対立、かつて父が対立していた京極高延らが浅井氏領に
進出、さらに南近江に勢力をもつ六角義賢も進出を始め、浅井家は四面楚歌状態となった。
結局、苦境に立たされた久政は六角氏の傘下に入ることによって領国を維持する道を選んだのである。
六角氏に属して力を蓄える
六角氏に服属した久政は嫡子猿夜叉に六角義賢の「賢」の字をもらい「賢政」と名乗らせ、
六角家の重臣平井定武の娘を賢政の嫁に迎えるなど浅井氏の存続に努めた。ところが、このような久政の姿勢が
『浅井三代記』など近世軍記物などに「久政無能説」を書かせる原因となった。しかし、亮政死後の混乱期にあって、
久政には江北の領主であり旧主家であった京極氏、近江守護で幕閣の実力者六角氏を敵にまわして勝算は無かった。
久政のとった外交政策は、分をわきまえた非常に現実的なものであったというべきだろう。
久政は武の人というより文の人というべき存在で、領内に用水争論が起こると上位権力者として積極的に関与して
全体を把握、公平な調停に努めたり、小谷城山上に六坊を築いて税や寺社政策などを押し進めるなど
着々と領国基盤を築き上げていた。華やかな軍事的事績こそないが、行政手腕や外交手腕は凡庸ではなかった。
やがて、六角氏に従うのを快しとしない赤尾・遠藤・安養寺氏らの浅井重臣らは、永禄二年(1559)、
久政の嫡子賢政(長政)を戴き久政を隠居させるに至った。とはいえ、その後も家中(長政)に対する
影響力は有していたようだ。そのことは、織田信長が朝倉攻めをした際、久政は長政に信長との同盟破棄を強く迫り、
ついに朝倉氏に味方することに決したことでもうかがわれる。しかし、この久政の判断が結局は
浅井氏滅亡の原因となった。小谷城の戦いでは小丸に拠っていたが、
隣接する京極丸が羽柴秀吉勢に落とされると自害して果てた。享年五十歳。
余談ながら、亮政の婿明政は、久政が家督となったのち田屋氏に復して湖西の田屋城主になった。
浅井氏滅亡後、娘婿の政高と孫の直政は、淀君との縁から豊臣秀吉、ついで秀頼に仕えた。大坂の陣が起こると
政高は大坂城内で討死、千姫とともに脱出した直政は江戸に下って秀忠の室崇源院(江)に仕えた。
直政は崇源院をはばかって浅井姓を三好姓に代え子孫は徳川家旗本として存続した。
………
浅井久政像
東京大学史料編纂所データベース
「史料編纂所所蔵肖像画模本DB」から転載
・浅井亮政
・浅井長政
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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