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大内氏
大内広世のとき、周防の統一を成し遂げ、さらに長門の厚東氏を討って防長二国に覇を唱え、二代将軍足利義詮に仕えて、周防・長門・石見の守護職に任ぜられた。
戦国時代の義興は、その一生を戦陣のうちに明け暮れ、九州の少弐・大友と戦い、また、出雲の尼子氏と安芸・備後の地に戦った。また、将軍職を追われて山口に下向してきた義稙を擁して上洛し、将軍職に復帰させた。
義隆は父義興のあとを継ぎ、大内氏の最盛期を現出した。しかし、天文十二年(1542)に出雲で尼子氏に敗れてからは軍事の世界から遠ざかり、学問や芸能にふけった。この結果、家臣の陶隆房に山口を追われることになり、天文二十年自殺して、大内氏は滅亡した。
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毛利氏
大江広元は、鎌倉幕府草創の功臣であり、その四男・季光が相模国毛利庄を領して、はじめて毛利氏を名乗ったという。
毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。元就は、弘元の次男として生まれたが、兄興元が若死。その時、家臣団は元就を盛りたてようとする派と、尼子氏の後楯をもって元就の弟元綱を推そうとする派の二派に分かれて争うことになった。元就は元綱を殺し、自力で毛利氏の当主の座を確保することに成功したのである。
しかし、元就は大内氏と尼子氏に挟まれ、結局、大内氏の傘下となって勢力を維持することになった。天文九年尼子晴久の兵を郡山城に破って武命を挙げ、天文二十四年大内氏を下剋上によって倒した陶晴賢と安芸厳島で戦い、これに大勝した。その後、大内義長を滅ぼし、ついで尼子氏を降し中国十一ケ国を領する戦国大名にのし上がった。
■中国地方、主要豪族割拠図
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