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大内氏
●大内菱
●周防大内館城
大内広世のとき、周防の統一を成し遂げ、さらに長門の厚東氏を討って防長二国に覇を唱え、二代将軍足利義詮に仕えて、周防・長門・石見の守護職に任ぜられた。
戦国時代の義興は、その一生を戦陣のうちに明け暮れ、九州の少弐・大友と戦い、また、出雲の尼子氏と安芸・備後の地に戦った。また、将軍職を追われて山口に下向してきた義稙を擁して上洛し、将軍職に復帰させた。
義隆は父義興のあとを継ぎ、大内氏の最盛期を現出した。しかし、天文十二年(1542)に出雲で尼子氏に敗れてからは軍事の世界から遠ざかり、学問や芸能にふけった。この結果、家臣の陶隆房に山口を追われることになり、天文二十年自殺して、大内氏は滅亡した。
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毛利氏
●一文字三つ星
●安芸郡山城
大江広元は、鎌倉幕府草創の功臣であり、その四男・季光が相模国毛利庄を領して、はじめて毛利氏を名乗ったという。
毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。元就は、弘元の次男として生まれたが、兄興元が若死。その時、家臣団は元就を盛りたてようとする派と、尼子氏の後楯をもって元就の弟元綱を推そうとする派の二派に分かれて争うことになった。元就は元綱を殺し、自力で毛利氏の当主の座を確保することに成功したのである。
しかし、元就は大内氏と尼子氏に挟まれ、結局、大内氏の傘下となって勢力を維持することになった。天文九年尼子晴久の兵を郡山城に破って武命を挙げ、天文二十四年大内氏を下剋上によって倒した陶晴賢と安芸厳島で戦い、これに大勝した。その後、大内義長を滅ぼし、ついで尼子氏を降し中国十一ケ国を領する戦国大名にのし上がった。
■中国地方、主要豪族割拠図
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南条氏
●夕顔
●伯耆羽衣石城
『羽衣石南条記』などによれば、塩冶高貞の子高秀は、貞治五年(1366)伯耆羽衣石に城を築き、南条伯耆守貞宗と名を改めた、とする。
南条氏は十四世紀中ごろから、東伯耆に勢力を拡大した。戦国期の大永四年(1524)、南条宗勝は尼子経久の伯耆侵入により羽衣石を追われ、因幡の山名氏のもとに身を寄せた。
天文九年山名氏の援助を受けて羽衣石城の奪回を図るが失敗し、永禄五年(1562)毛利氏が尼子氏を攻めると、毛利氏を頼り、三十数年ぶりに羽衣石に戻った。同七年には、因幡鹿野の合戦に勝利を得、以後東伯耆の重鎮として活躍、十二年には北九州攻めにも参陣している。
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草刈氏
●二つ引両・十曜
●美作高山城(矢筈城)
藤原秀郷流小山氏の後裔という。小山政光の孫氏家基秀の子基近(公継ともいう)から出るという。足利家氏に従って陸奥に下向し斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その地名をとって草刈氏を名乗ったのが始まりとされる。
応仁の乱では、盛継が山名宗全方として戦った。景継に至って、智頭郡の大半を押領し、永正年中(1504〜)には播磨の赤松氏、出雲の尼子氏とも戦っている。
戦国時代、衝継は美作に移り住み、東北条郡高山城に拠って、しきりに美作を侵し、近隣諸豪をはじめ尼子氏とも対抗している。天文十一年以降毛利元就に味方し、天正十四年重継は毛利輝元から美作国久米南条郡・久米北条郡を賜っている。衡継の孫重継は浦上宗景討滅に軍功をあらわし、毛利輝元から久米郡地方を与えられている。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
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