覇を競った戦国大名
|
大友氏
●杏 葉
●豊後臼杵城
戦国期、義長・義鑑・義鎮の三代で、戦国大名としての成長を遂げ、薩摩の島津氏、肥前の竜造寺氏と九州を三分する勢いであった。なかでも大友氏の全盛を築いたのは義鎮で、豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した。
義鎮は入道名の宗麟の方が知られている。有馬晴信・大村純忠とならぶキリシタン大名でもあった。天正六年、豊後より南下の軍を起こしたが、日向の高城(耳川合戦)で島津氏と戦い敗れ、大友氏は守勢に立たされることになった。そして天正十三年、筑後において龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって大友軍は敗北した。翌十四年、島津氏は大友氏の本拠豊後に突入した。大友軍は島津氏の全面攻撃をささえきれず、豊後は島津氏の支配下に入った。
龍造寺氏
●十二日足
●肥前佐賀城
龍造寺胤信は宗家・胤栄の未亡人と結婚し、惣領家の家督を継いだのである。天文十九年に、大内義隆の偏諱を受けて隆信と名を改めた。
その後、隆信は大友宗麟と戦わねばならなかった。宗麟が肥前国の守護職を得て、肥前への進出を狙ったためである。決戦は永禄十二年(1569)に行われ、家臣鍋島信昌の活躍によって大友軍の将大友親貞を討ち取ることができた。
ここに、龍造寺隆信の名声があがり、信昌の武名が知れ渡ることになった。肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。
伊東氏
●庵に木瓜・十曜
●日向都於郡城
祐堯のころから次第に強大となり、義国の代になると、飫肥城をめぐる島津氏との争いが頻繁に行われるようになり、特に文明十六年と翌年の戦いは戦史に残っているほどだ。その後、義祐の代になってからもたびたび飫肥城の争奪戦が伊東・島津両氏の間で繰り広げられた。ついに、永禄十一年にいたり、島津忠親は城を伊東氏に明け渡し、そこで義祐は子の祐兵に守らせた。この祐兵が義祐の跡を継いで、戦国大名伊東氏の中心となる。
祐兵は天正六年、大友宗麟と連合して島津義久・家久と耳川に戦っている。島津軍と大友・伊東連合軍は耳川だけでなく、名貫原・小丸川畔の高城でも激突している。この戦いで大友軍の先遣隊は島津軍に大敗北を喫し、結局、祐兵は上京し秀吉に仕えた。
相良氏
●長剣梅鉢/六つ瓜に七つ引
●肥後人吉城
戦国期相良氏の領国は肥後国の球磨・八代・蘆北の三郡で、晴広のあとは義陽が継いだ。義陽ははじめ頼房とも義頼とも称したが、将軍義輝から一字を与えられて、義陽とした。天正九年に肥後響原で大友軍と戦って敗死している。
長毎のとき、秀吉の島津征伐に従い、本領を安堵され、朝鮮侵略に際しては加藤清正に属して、各地に戦った。関ヶ原の戦には、はじめ西軍にあったが、秋月種長らと東軍に属し、本領安堵された。
菊池氏
●並び鷹羽
●肥後隈府城
南北朝期の菊池武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎え、九州南朝方の中心として活躍している。武光は足利方の少弐氏と戦い、九州探題の一色氏・斯波氏を破り、大宰府をおさえて、九州における南朝の最盛期を現出した。
戦国期にいたり、豊後の大友氏が、肥後の阿蘇氏・相良氏と結び、菊池氏の家督争いに介入しはじめたのである。永正三年、政隆は、大友氏との戦いに出陣したが、その留守中に大友氏と結んだ家臣が反乱を起こし、政隆は当主の座を追われ、阿蘇の大宮司であった阿蘇惟時(武経)を家督に迎えた。
しかし、武経の時代は長く続かず、大友氏によって、武包が後を継ぎ、武包が天文元年に陣没すると、家督は大友義長の二男、すなわち義鑑の弟義武へと代えられて、完全に大友氏の傘下に組み込まれることになった。
|
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
|
これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
|