■鎮西合戦記
今山の合戦
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耳川の合戦
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沖田畷の合戦
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戸次川の合戦
龍造寺氏、大友氏を破り、九州三強への途を開く
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今山の合戦
●元亀元年(1570)●大友氏 VS 龍造寺氏
かつての北九州の三強といわれた大友・少弐・大内三氏のうち、少弐氏・大内氏は、龍造寺・陶氏らその家臣によって滅ぼされた。そして、北九州最大の勢力大友氏と新興勢力・龍造寺氏との間に緊張が走るようになる。
龍造寺の勢力拡大を懸念した大友宗麟は、先に滅亡した少弐氏の再興を画策し、少弐氏を隆信の対抗勢力に しようとしたことで、大友・龍造寺両氏の緊張は一気に高まった。ところが、そんな最中に毛利氏の九州侵攻が 起こったため、両氏は一時和睦、これに共同して当たった。しかし、毛利氏撃退後の元亀元年(1570)、 宗麟は隆信を討つ好機と判断し、三万の軍勢を肥前に差し向けた。
龍造寺氏と九州の最大勢力である大友氏との戦力の差は隔絶しており、またたくく間に大友氏は龍造寺氏居城佐嘉城を包囲した。この窮地に際して龍造寺氏の重臣鍋島直茂は乾坤一擲に奇襲作戦を提案した。すなわち、勝ちに奢った大友氏に対して夜襲をかける、というものであった。しかし、諸将は戦い疲れており誰もこの作戦に賛成する者はいなかった。ところが、隆信とこの軍議に参加していた隆信の母の賛成により作戦は決行に決まった。
かくして直茂は敵の本陣・今山を奇襲し、総大将・大友親貞を討ち取る大功を立てた。この奇襲の成功により勢いを盛り返した龍造寺軍に対し大友軍は後退に転じることとなった。そして、その後十年にして龍造寺隆信は五州二島の太守にまで昇りつめるのである。これは、隆信と直茂の二人三脚の賜物であり、この間の直茂の功績は計り知れないもので、まさに龍造寺氏の柱石たりうる人物であった。
ところで、龍造寺氏の家紋は、日足、剣花菱であったが、今山の合戦での勝利を記念して、以後、大友氏の杏葉を家紋として用いるようになった。それは、龍造寺氏を継承する形となった鍋島氏にも受け継がれ、近世大名鍋島氏の定紋も杏葉紋であったことはよく知られている。
・右図:今山の合戦-要図
日向を舞台に、大友氏と島津氏が激突、大友氏の衰退をまねく
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耳川(高城)の合戦
●天正六年(1578)●大友氏 VS 島津氏
元亀三年(1572)島津氏は日向の伊東義佑を木原崎合戦で撃破。天正五年(1577)、伊東義佑は島津氏の攻勢に敗れて大友氏を頼り豊後へ逃亡し南日向は島津氏の勢力下におかれた。さらに、北日向土持氏らも島津配下に入り日向は完全に島津氏の支配下となった。
この事態を重くみた大友宗麟は、天正六年(1578)四月、日向へ攻め入り、土持氏を蹴散らし耳川以北の北日向を制圧した。大友勢四万三千を率いた田原紹忍は、陸路を南下した。先鋒の佐伯宗天・田北鎮周は十月に、島津家・山田有信が守る高城を攻撃した。しかし、救援に駆け付けた島津家久率いる三千の兵を高城に入れてしまうという失態を犯し、戦線は膠着状態に陥ってしまった。
大友勢は高城に対して攻略戦を行ったが、落とすことはできず、逆に損害ばかり増やす結果となった。そして、城の周囲を包囲し、外部との通行を遮断して兵糧攻めに作戦を変えた。十一月初め、島津義久は高城救援のために四千の兵を率いて、日向佐土原に着陣。島津義弘も飯野を出発し、財部城に兵を入れた。
一方、野津に後詰として陣を置いた大友義統は、肥後の相良義陽と協力して肥後から日向を攻撃する作戦を立て、志賀親教・同鑑隆・朽網宗歴・一万田宗慶らの南郡諸将を肥後に送り込んだ。しかし、これらの南郡衆は日向攻めに反対した武将達で、相良義陽と合流することなく、一ヶ月以上も肥後から動こうとはしなかった。
大友軍の総大将である田原紹忍は、島津勢を少勢と侮り、小丸川を渡河。十一月十二日、高城を中心として、島津と大友の両軍が激突。数におごる大友勢に対して、島津軍は正面から島津義弘、側面から島津義久、さらに高城から島津家久が大友に攻撃を行った。三面から攻撃を受けた大友軍は、支え切ることができず壊滅的な打撃を受け敗走。逃げる大友軍を追撃する島津勢には「耳川」で大友軍を捕捉し、大友方の討たれる者、溺死する者は数知れず、戦死者は四千余りとなった。まさに、島津軍の大勝利となった。
大友軍の敗因としては、総大将である田原紹忍の油断と無謀、決戦に際して高城籠城勢を蔑視し警固を怠ったこと。そして、高城の危機は、三州(薩摩・大隅・日向)全体の危機として捉えた島津義久の気合いが勝っていたことがあげられよう。さらに、島津軍を指揮した島津義弘の伏兵・誘兵の巧妙を極めたこと、大友宗麟が後方にあったことに対して、島津義久自らが陣頭にたったことで、島津軍の将士の士気が、大友軍のそれを凌駕したことにもあった。
高城・耳川の敗戦の情報、大友宗麟に対して過大に報告され、随行していた宣教師達の進言にも耳を貸さずに、大友宗麟は失意の内に豊後・府内に退却した。敗戦後、豊後・豊前・筑前の大友領内では国人衆の謀反が頻発、さらに、肥前の龍造寺隆信は大友宗麟に敵対するようになった。耳川・高城の合戦に勝利した島津家は、念願であった三州(薩摩・大隅・日向)を統一し、隆盛を極めた大友氏には衰退の陰が大きく被うようになったのである。
・右図:耳川の合戦図(部分)
旭日の龍造寺氏、島津軍にまさかの敗戦
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沖田畷の戦い
●天正十二年(1584)●龍造寺氏 VS 島津氏
肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官であった。龍造寺隆信が家を継ぐと、主家を少弐氏を滅ぼし独立、異父弟の鍋島直茂、四天王と讃えられた百武賢兼・成松信勝・円条寺信胤・倉町信俊らの勇猛な家臣の活躍で、筑前・筑後・肥後に勢力を伸ばしていった。
龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であった。しかし、隆信は武勇・知略には長けていたものの、残忍な性格も併せ持ち、新参の武将のなかには彼に心服していない者も少なくなかった。
天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、嫡子政家に有馬討伐を命じたが、有馬氏は政家の妻の実家ということでもあり、有馬氏討伐は遅々として進まなかった。これにしびれを切らした隆信は自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。一方、有馬軍の兵力は約3千で、晴信は島津家に援軍要請を出し、龍造寺軍に備えようとした。
晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。
島津軍の来援で、有馬軍は活気を取り戻した、とはいえ有馬・島津両軍あわせて六千余りの軍勢でしかなく、龍造寺軍の三万に対して態勢であることは変わらなかった。そこで家久は、有馬方の諸将と協議した上で、戦場場を島原北部の沖田畷とした。沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に左右2・3人並んで通るのがやっとの畦道があるだけの地で、大軍を展開することが困難な場所であった。
これに対して龍造寺隆信は、有馬・島津の主力軍は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めた。沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んだ。
家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ちんだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いった。
龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の生涯を閉じた。二万余りの龍造寺軍は動揺し、鍋島直茂は退却。殿軍を受け持ったのが四天王の武将で、四名とも殉死に近い働きで、二万の将兵を無事に佐賀まで退却させりことに成功した。しかし、この合戦において、九州北部に一大勢力を築いた龍造寺は衰退を余儀なくされるのである。
寡勢をもって、勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った、島津家久の作戦による大勝利であった。これで島津氏にとって九州制覇への道が 大きく開けたのである。
図:沖田畷の合戦-要図
九州統一を目前にした島津氏、豊臣氏の先鋒軍に大勝利する
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戸次川の戦い
●天正十四年(1586)●島津氏 VS 豊臣方四国勢(長宗我部氏・十河氏等)
島津氏が大友氏を耳川で破り、龍造寺氏を沖田畷に降し、ようやく九州の覇者の地位を掴みかけた頃、時代は大きく動いており、戦国時代も終盤に 差し掛かろうとしていた。豊臣秀吉は島津義久に大友宗麟への攻撃を中止するように命じた。しかし、義久は秀吉の命令を聞かず、 大友への攻撃の手を緩めりことはなかった。大友氏は島津氏の総攻撃を前にして秀吉に救援を求めるため、上坂した。これを容れた秀吉は中国の毛利氏へ九州島津征伐への進軍を命令。毛利軍は四万で筑前方面へ進出した。
一方、四国勢にも天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし、先鋒には十河存保五百余人、讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他が秀吉の命を受け戦陣に加わった。そして、土佐勢の長宗我部元親、その嫡子信親らが出陣した。
島津軍と四国勢との決戦の場は豊後戸次川の河原であった。島津軍を前に、戦に馴れた十河存保・長宗我部元親らは大友勢の到着を待って渡河する、あるいは島津軍の渡河を誘ってそれを叩く策を秀久に勧めたが、功にはやる仙石久秀はかれらの意見を無視して、島津軍に攻撃を開始すべく行動を開始した。
豊臣方は淡路勢を先陣に第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手、元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越えた。豊臣方は島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指した。
これに対し、島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げさせた。最初に崩れたのは淡路勢だった。兵力三千ほどの新納隊は、淡路勢に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕し、秀久を遁走させた。しかし、新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で頑強に抵抗した。新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦となった。これに東に向かっている讃岐勢が方向を転じ、土佐勢の主力も加われば、新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びることになるはずだった。
しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に分断した。さらに山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃した。こうして島津方に包囲された豊臣方は、壊滅的な敗戦を蒙った。
■戸次川の戦い-要図
図:「裂帛-島津戦記」掲載の図を参考に作成
合戦の最中、十河存保は「今日の合戦は仙石氏の謀略のまずさによるといえども、恥辱は先手にあった将帥にあり、長宗我部信親引き返って勝負を決したまえ。存保加勢申さん」といい遺し、存保は馬に乗って走った。聞いた信親もともにとって返し敵の中に突入し、壮烈な戦死を遂げた。存保も『南海通記』に存保いよいよ最後の戦いという時、一子千松丸を秀吉の前に伺候させるよう。家臣に頼み残して敵陣に乗り込んでいった。そして十二月十二日、奮戦虚しく島津家久の猛攻の前に戦死。享年三十二歳であった。
一方、無謀な作戦が裏目に出て豊臣軍の大敗を招いた仙石久秀は、いちはやく戦場から離脱した。戦後、敗戦の罪で、讃岐を没収されたが、のちに復活して近世大名として生き残った。秀久の無謀から始まった合戦に勇戦戦死した存保・信親らは草葉の蔭でどのような感慨を抱いただろうか。
しかし、この合戦に島津氏は勝利したものの、その後の豊臣勢との戦いは敗戦続きとなり、結局、島津氏は軍を薩摩に戻し、豊臣秀吉に降るに至った。
CONTENTS
●鎮西-戦国通史
●戦国大名伝
●大名/国人総覧
●三強合戦記
●三強の軍旗
●戦国武将割拠図
●戦国武将家紋地図
●三強人物伝
・島津義弘・島津義久・竜造寺隆信・大友宗麟